人と自然のつきあいかた-水希少社会の共生システム
原子力災害と新型コロナ禍を通じて考える人と自然のつきあいかた

近藤昭彦(千葉大学環境リモートセンシング研究センター)

 人と自然の関係性については哲学、社会学、地理学、その他の多様な分野で十分議論されてきているように思います。しかし、気候変動、環境汚染といった問題に対する対応では両者の関係性の多様な認識の仕方が問題に対する対応の違いになって顕れているように思います。なぜでしょうか。私は意識世界ということを考えます。人が関係性を持ち、考え方を構築していく範囲のことですが、人によって意識世界が異なるため、多様な未来に対する考え方が存在します。もちろん、唯一の正しい未来があるわけではないのですが、意識世界が交わらないと、単なる分断になってしまいます。意識世界が広がって重なりが増えてくると、そこには共感(エンパシー)が生まれ、様々な考え方の中でも諒解が生まれるのではないかと思います。この講義の主題である“人と自然のつきあいかた”も意識世界を広げ、関係性を深めていくと、人と自然の相互作用の中で、私たちがどう生きるべきか、見えてきそうな気がします。

Ⅰ.はじめに

 まずこの写真を見てください(クリックすると大きくなります)。この場所がどこかは地理学者だったら写真の特徴からだいたいわかります。高校で習った地理学を思い出してください。地理学は、おもしろい、やくにたつ、命や財産を守る学問です。
 地形は非常になだらかです。なだらかな地形はどういうところに形成されるでしょうか。その候補の一つは花崗岩地域です。約1億5千万年前に地下深くに大量の溶岩が形成され、ゆっくり固まりました。悠久の時間は岩体を地表に露出させ、永い時間をかけて風化と侵食が進み、なだらかな地形が形成されました。
 植生は何でしょう。初夏の写真なのでわかりにくいかも知れませんが、落葉広葉樹です。落葉広葉樹は宮沢賢治の童話にも登場する東北地方の自然植生です。良く見ると伐採されているところもあり、作業道も見え、落葉広葉樹林が高度に利用されていることもわかります。それは里山としての新しい平衡状態といえます。
 ここは福島県伊達郡川俣町山木屋地区です。なだらかな地形を利用した牧草地や畑があります。そこではかつて牧畜や葉たばこの栽培が行われていました。落葉広葉樹林は山菜や茸を採るだけでなく、落葉は葉たばこの品質を高めるためにも利用されていました。それはマイナー・サブシステンス(遊び仕事)として山村の暮らしに欠かせない資源と生きがいを提供していました。また、福島は落葉樹を使った椎茸の“ほだ木”の供給地でした。落葉樹を伐採しても約30年で再生し(関東では約20年程度)、再び利用することが可能でした。写真からは濃密な人と自然の関係性を読み取ることができます。
 なだらかな地形に谷は深く刻まれていません。花崗岩には深い風化土層が形成され(マサと呼ばれ土砂災害の素因にもなります)、降水はゆっくりと地下に浸透し、地下水となってゆっくり排水されます。だから、表流水として排水する必要がないので密な谷が刻まれていないという説明もできます。
 広い低地が見えますが、ここはかつて水田が広がっていたところです。昔は湿田で、稲作が大変だったという話を聞いたことがありますが、地下水が豊富な花崗岩山地の特徴でもありました。ここは“やませ”(夏に吹く冷涼な北東風)による冷害の常襲地でもあり(宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」を読んでほしい)、昔は大変な苦労があったのですが、1970年代以降の圃場整備により川俣町内でも米の収穫量が多い地区になりました。
 このように、一枚の写真から自然の特性、人と自然の関わりをたくさん読み取ることができます。谷底は本来だったら青々とした水田が広がっているはずですが、白く見えます。それは放射能の除染が終わった水田です。撮影は2014年ですが、2011年以降、ここでは暮らしが失われました。その結果、ふるさとに戻りたい人、いつかは戻りたい人、戻れない人、戻らない人、...人は分断されました。それでも戻りたい人々との協働により、2017年3月31日に山木屋地区の避難は解除となりました。しかし、人口は約1/3に減り、子供は少なくなりました。この地域の未来をどのように築いていくか。それを考えていきたいと思います。共感、理念、科学の3基準を共有し、希望、行動、楽観を持てば、未来は切り開かれると思います。
 ドローン写真の撮影は2014年6月1日。

避難解除前の山木屋乙二地区(2015年11月3日)

山は紅葉で彩られ、美しい秋の阿武隈の穏やかな風景が広がっているように見えるが、冷害を乗り越えて豊かな稲の恵みをもたらしてくれた水田は表土を剥ぎ取られ、除染物質が詰まったフレコンバックの仮置き場になっている。ここには人の暮らしはない。手前の耕された畑は避難解除を夢見て耕作準備を始めたところ。避難指示は2017年3月31日に解除された。この畑は現在はダリア園になっている。奥の草地には双葉町の中間貯蔵施設の土地で育てられていた曼珠沙華が移植されている。ひとのふるさとを取り戻したいという思いは人権である。近代科学技術の粋を使いこなすためには人権の尊重がなければならない。

Ⅱ.事前課題:ポストコロナ社会と地球人間圏科学

まずスライドをひとつ見て頂き、事前課題を出したいと思います。課題といっても試験ではないので気軽にあなたの考え方を教えてください。それに基づいてコメントを返したいと思います。そこから学生と教員の間で化学反応が起きることを期待しています。クリックするとスライドや説明が表示されます。

近藤講演スライド  (要旨)  (スライドの説明)

 2020年7月13日にオンラインで開催される日本地球惑星科学連合の緊急セッションで話した内容です。この講演のターゲットは科学者、研究者であることに留意してください。まず閲覧頂き、下記の点についてご意見をください。スライドの説明をクリックすると、説明文がでてきます。

近藤講演スライド(2021年度追加)

 その後、2021年3月24日に昨年のバージョンアップ版として日本学術会議公開シンポジウム「コロナ禍が加速する持続可能な社会の実現に向けた地球環境変化の人間的側面研究の推進」において「ポストコロナ社会を創る人間的側面研究」と題して話をしました。人間的側面とは、社会系の国際プログラムであった International Human Dimension Programme (IHDP) の精神を引き継いだ学術会議の分科会の名称です。IHDPは現在はFuture Earthに取り込まれていますが、環境問題の解決には人文社会系の知識、経験が欠かせません。HD (Human Dimension)を通じてSDGsやFuture Earthを達成させたいと思います。

事前課題 重要!

 原子力災害を体験し、新型コロナ禍の最中にあるあなたが感じた科学技術と社会の関係について聞かせてください。
 科学技術は私たちに便利な生活をもたらしました。でも、その利便性を享受するということの背景には何があるのか。ベネフィットとリスクの両側面を持つ科学技術を使うためには、私たちの社会や習慣はどうあるべきなのだろうか。「抽象的な表現になりました。代表的な意識世界には都市的世界(urban)と農村的世界(rural)があると思います。東京という大都市にある上智大学の学生がどんな意識世界を持ってるのか、二つの世界を行き来できるのか、意見交換をしたいと思います」と書きました。

 事前課題の提出は  7月5日まで にお願いします。7月12日までの1週間でコメントしたいと思います。

 2020年度のコメント ここに2020年度のコメントを記述しました。参考にしてください。

 2020年度の事前課題は「新型コロナ禍を体験した後の社会はどうなると思いますか。その社会ではあなたと自然のつきあいかたはどうなっているか(変わっているのか、変わらないのか)。それは、あなたの意識世界と関わりはあるだろうか」。
JpGU 緊急スペシャルセッション
U-24 新型コロナウィルス感染症と地球の環境・災害
日本学術会議公開シンポジウム「コロナ禍が加速する持続可能な社会の実現に向けた地球環境変化の人間的側面研究の推進」

Ⅲ.原子力災害と新型コロナ禍を通じて考える人と自然のつきあいかた

原子力災害における解決と諒解 (スライドの説明)

 これは2019年11月15日に上智大学で開催した連続講演会のときの講演スライドです。これをもとにしてみなさんと一緒に考えたいと思います。

参考文献(学術の動向と農村計画学会誌の論文はJ-STAGEから取得できます。J-STAGEを覚えておくと便利ですよ)


Ⅳ.脱線のページ(2020年版)

 脱線といっても事故ではありません(時々事故になることもありますが)。 近藤の専門の地理学もそうですが、環境や災害に関わる学術は“関係性探究型科学”(大熊孝先生の造語)です(対する語に“普遍性探究型科学”があります)。環境を理解するためには、あらゆる関係性を探索する姿勢が必要です。問題はあらゆる要因が積分されて顕れているからです。よって、最近の講義では意識して脱線するようにしています(歳もとりましたので)。
 7月31日を期限に、少しずつ追加しますので、時々訪れてください。⇒2020年度の記述です。

 役に立つ情報と近藤の講義資料

 今起きている水害について

 災害は素因(土地の性質や、社会のあり方)に対して誘因(ハザード)が働きかけることによって生じます。長期的には 素因を意識して、私たちの精神的習慣や土地利用のあり方を変えていくことが防災・減災に繋がると考えています。現在、九州を中心に水害の被害が広がっていますが、これは「人と自然のつきあい方」を考える重要なきっかけを提供しています。
 九州における水害では“人と自然のつきあいかた”に関する重要な出来事が起こっています。球磨川水系では川辺川ダム、五木ダムの建設をやめて、ダムによらない治水を進めていました。筑後川水系の下筌(しもうけ)ダムは洪水の調整を行っていますが、 かつて蜂の巣城紛争と呼ばれたダム建設反対運動が起きた場所です。これは治水の下流優先主義からダムサイトにおける暮らしを重視するきっかけになりました。水害という事態を受けて、人と自然のつきあいかたは変わるのでしょうか。理想と現実の間でどのように折り合いを付けたらよいのか。現在と未来のどちらを重視するか、未来をよくするために人の諒解をどのように形成するのか、わがこと化して考えなければならない重要な事象が起きました。

 洪水・土砂災害で犠牲者はどのように生じているのか

 静岡大の牛山さんはなぜか昔から知っている知人であり、私も静岡大の講義を担当しています。彼はメディアへの露出が多いのですが、科学の成果を社会に伝え、実装する役割を果たしているといえるでしょう。Pielkeの③あるいは④といっても良いかも知れません。7月7日付のYahooニュースがありましたのでお知らせします。タイトルをクリックしてください。牛山さんは今は静岡で暮らしていますが、静岡では7月7日というと“七夕豪雨”を思い出すと思います。地域ごとに災害の歴史があり、教訓が残されています。災害の履歴は地域ごとに伝承して、教訓を伝えていくことができればよいと思います。それは、人と自然のつきあいかたにも繋がります。

  マイナーサブシステンス

 この言葉を知っていますか。「遊び仕事」とか「副業」と訳されていますが、山菜採り、キノコ採り、渓流釣りといったもので、本業ではないのですが、暮らしの一部となって楽しみや生きがいとなっているものです。近藤が福島に向かったのは、東北地方の落葉広葉樹の里山に対する憧れがあり、いつか阿武隈か北上で何かをやりたいと思っていた時に原発事故が起きたので心がアクチベートされたという事情もあります。千葉大のチームは帰還を望む方々と協働作業を行ったのですが、皆さん口々に「おれたちは山がないと暮らせないのだ」とおっしゃっていました。山菜やキノコが採れなくなったことを悔しそうに語る姿をたくさん見てきました。事故に対する補償は日本は減価償却主義をとっています。それがひとにとってどんなに大切なものであっても、貨幣に換算した時価の価値しかないとされます。もちろん、マイナーサブシステンスの喪失は保証の枠組みからは外れます。それは合理的なのでしょうか。ひとと自然の良好なつきあいは、楽しく誇りをもって少し豊かに暮らしたい、という基本的な人権でもあると思います。マイナーサブシステンスの重要性は都市的世界観の元では認識しづらいかも知れません。しかし、農村的世界観では暮らしの重要なパーツでもあります。地理学、民族学、環境社会学といった分野ではマイナーサブシステンスの重要性を主張する論文、論考がたくさんありますので、少しずつ世の中の認知度を高めていきたいと思います。マイナーサブシステンスはこの講義のテーマである“人と自然のつきあいかた”を考える際の重要項目です。

  生物多様性はなぜ重要か

 これに関しては1992年のリオデジャネイロサミット以降、十分議論されていると思います。近藤はここ数年、千葉県印旛沼流域で中南米原産の水草であるナガエツルノゲイトウの駆除に参加しています。もともとアクアリウム用に輸入されたものが、人の手によって環境に放出されたと考えられています。繁殖力が強く、水面を覆ってしまうために、在来の生物を駆逐したり、分離した群落が排水ポンプに絡まり、水害リスクを高める、水田に進出し、稲刈りの効率を下げる、といった害が報告されています。しかし、群落の下は結構多様な生物の住処になっていたり、景観として受け入れられている側面もあります。現在の生態系は場合によっては数百万年の歴史の中で形成されてきたものがあり(山ができたり、氷河時代が来たり、植生が変わったりする時間スケールです))、地域固有の生態系の持つ歴史的、文化的価値はかけがえのないものだと考えています。梅やコスモスなど、世の中には外来種が多いのだから、受け入れても良いのではないかという考え方もありますが、人間がコントロールできない種の分布が拡大して世界が均質化されていくのは、グローバル資本主義の世界で起きていることと類似しており、なんとなく違和感があるというのが近藤の感じ方です。考え方は人様々ですが、ひとつの“人と自然のつきあいかた”です。

  グリーンインフラストラクチャー(GI)、EcoDRR

 グリーンインフラストラクチャー (グリーンインフラ、GI)はいくつかの定義がありますが、現在検討中の学術会議の提言では「自然環境を活かし、地域固有の歴史・文化、生物多様性を踏まえ、地球環境の持続的維持と人々の命の尊厳を守るために、戦略的計画に基づき構築される社会的共通資本」としました。また、EcoDRRは生態系を活用したDisaster Risk Reductionで、グリーンインフラと共通する考え方ですが、特に防災・減災をターゲットにしています。この二つの考え方は“人と自然のつきあいかた”に対する一つの姿勢を現しています。ブラウザで検索して調べてください。第二次国土形成計画や第五次環境基本計画にも登場します。国土の未来に対する方向性が示されています。

  安全な土地の利用の仕方に変えるには

 球磨川では蒲島知事(もともと河川工学者)がダムによらない治水を進めていましたが、残念ながら被災してしまいました。グリーンインフラやEcoDRRを達成して、災害に対して安心して暮らせる土地利用を達成するにはどのくらい時間がかかるのでしょうか。おそらく世代単位の時間がかかると思います。基本的な考え方を諒解し、少しずつ土地利用を変えていくことは忍耐が必要な営みです。球磨川ではすでにダムを造っておけば良かったという論調も聞こえ始めています。近藤は、ダムを造るのであれば、受益者がそのコスト、リスク、運営の方法を十分理解したうえで諒解する必要があると思います。安全は自分ではない誰かが自分のために確保してもらう時代ではなくなってきたと思います。
 滋賀県では地先の安全度マップを作成しています。 これが従来のハザードマップと違う点は、対象河川だけでなく、すべての支川、水路等が氾濫することを想定して作成されている点です。これは国のハザードマップ作成指針とは異なるため、滋賀県は県独自の予算で作成したと聞いています(前知事のリーダーシップが発揮されたとも)。このマップを持って県の職員は地道に地域を訪問して理解の醸成を図っています。滋賀県は自宅の改修や移住に最大500万円(額については要確認)程度の補助金を出すことにより、時間をかけて土地利用の誘導を行っています。世代単位の時間がかかる作業ですが、すでに変化は始まっているようです。“人と自然のつきあいかた”を変えていくのには時間がかかる、だからこそ、強い理念を持つことが大切なのだと思います。

  田園回帰

"人と自然のつきあいかた"というと、田舎暮らしを思う方も多いと思います。それは都会における生業を勤め上げた後は、田舎でのんびり暮らしたいというシニアの望みでしょうか。ところが、最近は20~30代の若者の田舎への移住が増えています。まだ人口動態論にまでは至っていませんが、統計値は確実に増加しています。農村計画学や地理学分野では研究も進んでおり、田園回帰と呼んでいます。社会の変革に繋がるムーブメントになるかも知れません。田園回帰で検索してください。

  科学技術主義

人と自然がうまくつきあうためには、自然のメカニズムを知ることも必要です。エジプト、ニューバレー県のオアシスではヌビア砂層の地下水を使っていますが、地下水位はどんどん低下しています。いつか地下水が使えなくなるのではないかと心配なのですが、現地の人々はいずれ科学技術が解決すると楽観しているそうです。これは悪しき科学技術主義といえるでしょうか。この場所は現在は極乾燥地域です。地下水の補給(涵養といいます)はありません。地下水は氷期(地球は過去100万年ほどの間に約10回の氷期の間氷期のサイクルがありました)に涵養されたと考えられます。現在の気候条件下では涵養は考えにくいので、地下水利用が継続されればいずれ枯渇してしまうかも知れません。その時、オアシスの暮らしは持続不可能になるでしょう。地下水は涵養量を超えない範囲でしか持続的な水利用はできません。地下水のストック(貯留量)が大きいため、一定期間は地下水を使うことができますが、フロー(涵養量、流動量)が小さいのでフローを超えた水利用は持続可能ではないという言い方もできます。河川はストックは小さいが、フローが大きいので持続的に利用できるわけです。善き科学技術主義では、水循環のメカニズムを理解し、フローの範囲内で使うということになります。自然とうまくつきあうと人の暮らしも持続可能になります。その時、暮らしのレベルは下がってしまうかも知れませんが、幸せとは何か、という考え方をしっかり持つことができれば暮らしを持続することができるのではないか。しかし、資本主義の仕組みがそれを難しくしているのかも知れません。

  脱ダムという考え方

九州、球磨川における水害で、ダムによらない治水が揺れ動いています(7月22日西日本新聞)。確かに現在、苦しんでいる人がいる時に未来を語るのは苦しい。ダムさえできればと考えるのは暮らしに責任がある人として当然である。しかし、覚悟を持って未来を語ることも必要だろう。そのためには、思想、哲学と提案、そして実践がなければならない。そんなことを言ったら何もできなくなってしまうではないか、という意見もあるだろうが、研究者であれば経験と専門性に基づいた提案をし続けることが大切だと思っています。まず、人が低地に集住しなければならない社会のあり方を修正しなければならないだろう。これについては多くの提案がすでにあるので、理念の段階から実践の段階に移す努力を為さねばならないと思います。次に現場をどうするかを考えなければならない。滋賀県のように家屋の移転や改修を促す仕組みが必要である。河道近傍は堤防の強化だけではなく、水防林の設置はできないだろうか。流水の濁りが緩和されるだけでも被害は小さくなる。ダムは下流に守るべき命と資産があれば計画しても良いと思うが、所詮寿命は50年である。100年後の地域も考えたい。いずれにせよ、土地利用の誘導は世代単位の時間がかかる。理念を明確にしなければならないが、そのためにも自然と人の分断を修復する必要がある。遠回りかも知れないが高校における「地理総合」の必履修化は長期的な視点における実践の一つである。様々な努力を見える化していくことも人の考え方を変える契機になるのだと思います。

  災害の外側にいる人に必要なもの-現場に心を置いたエンパシー

水害が起きるたびに「危険性の高い土地には居住しない」という意見を聞く。もっともだ。でも、居住者にとってはそこがふるさとであり、様々な事情があってそこで暮らしているのだ。住むなといわれてもすぐには対応できない。安全な場所に身を置いた“いい人”の発言である。土地利用の誘導には世代以上の時間がかかる。だから理念を明確にして着実に進まなければならない。熊本県の蒲島知事は理念は明確であったが、水害が来るのが早すぎた。滋賀県では県独自のハザードマップ「地先の安全度マップ」を作成している(国の基準の先を行っているため、補助金が出ず、県予算で対応したとのこと)。県の職員はそれを持って地道に地域を巡って説明し、県は移転や改築に補助金を出している。こういう努力を払って初めて信頼が生まれ、人と自然の関係性が回復する。現場に心を置いて、エンパシーを発揮することが、災害の現場の外側にいる我々が心しなければならないことである。

  水害の真実

中国、長江流域で氾濫が起きていることが連日報道されています。私は90年代後半に長江、淮河流域を訪問し、1998年の長江洪水は調査にも行ったので、水害の陰に隠れた真実があることを知っています。三峡ダムは完成前に何回か行きました。このダムの決壊の可能性が報道されていますが、決壊のリスクが実際にある場合、下流域の住民の避難準備で大変な状況になっているはずですが、そういった報道はないようです。また、何カ所かで堤防を切ったという報道もありますが、それは遊水池として計画されている場所で、遊水池が機能したということです。淮河の治水の計画図をみたことがありますが、その時の説明ですと住民との間で了解があるとのことでした。遊水池に勝手に人が入り込んで人口が増えてしまった場所もありますが、それは中国の社会問題、人口問題として認識することができます。 私は三峡ダムの上流にある地すべり地帯が気になります。ダム湖の水位上昇で地すべりが滑動したら津波が発生するかも知れません。今回の長江洪水は1998年の水害と比較している記事が散見されますが、実は1998年の長江洪水は治水が成功した例といえます。1998年が20世紀で一番暑い夏だったということ、江沢民が初めて災害報道を許可した水害だったということで、有名になったという背景があります。災害報道というのは記者の世界観をベースに語られますが、背後には様々な真実があります。それを知ることが、"人と自然のつきあいかた"を考えるきっかけになります。

  専門家と政治家の役割分担

新型コロナ禍を巡る政策で何となく腑に落ちないのは専門家、政治家の役割分担です。政治家は総合力をもって判断し、決断することが役割です。その決断が信頼を得るには理念と理由の説明が必要なのですが、そこがよく見えないのが残念です。一方、専門家は専門知による提案を行うことが役割です。ただし、専門家は専門分野があるから専門家なのであって、大抵の専門家は①純粋な科学者、②科学の仲介者、③論点主義者であって、解くべき問題を総合的に俯瞰しているわけではありません。④複数の政策の誠実な仲介者たる専門家であれば選択肢を提言できるかも知れませんが、決断は政治家の仕事です。そして、行政はそれを実行する。実際にはローカル・ガバメントの立場もあるので複雑になります。さらに、三者の間で信頼があれば、市民は了解して従うことができるはずです。

  ノームとノーマル

私もにわか勉強ですが、新型コロナ禍で暮らしに制約が生じている時こそ、知っておくと良いと思います。フーコーの哲学ですが、「危機に際して権力はノーム(規範)を作るが、それが定着すれば、人々はそれがノーマルだと思うようになる。ノーマルから逸脱し、異常扱いされるのはいやなので、人は権力から強く促されなくても、自分で自分を無意識に統制するようになる」(4月の朝日新聞の記事で勉強しました)。流されない生き様を目指してほしいと思います。

  古典で知るひとと自然のつきあい方

先日酔っ払って思わずアマゾンで注文した源氏物語全10巻(瀬戸内寂聴)が届きました。買ったきりの本がたくさんあるのに、いつ読み切ることができるのか。正月に枕草子を読みました(小学生でも読める木村耕一版)。清少納言は宮中のいやなことはあまり書いていません。その後に宮中に入った紫式部は、なにきれいごと言ってんのよ、と清少納言には批判的だったそうです。さて、何が書かれているか楽しみです。実は正月に平家物語と方丈記を読んで、鴨長明が大好きになりました。この二つは時代は重なっています。源平の争乱の中、長明さんは自然の中でスローライフを楽しんでいたわけです。もちろん、人生いろいろあったわけですが。この二つの世界は、都市と農村、グローバル資本主義と地域経済、といった世界に敷衍できそうな気もします。権力とか地位とか名誉とか、そんなものに頓着せず田園でのんびりと余生を送りたいものだと思います。一昨年下鴨神社に行きましたが、方丈庵のレプリカがありました。でも、鴨長明は下鴨神社の宮司にはなれませんでした。実際の方丈庵は今の伏見区、日野の山中にありました。近日中に訪問したいものよ。 これも人と自然のつきあいかたを考えるヒントです。

  縮退社会の宿命

高度経済成長期の問題解決はそんなに難しくなかったのかもしれない。それはお金を使うことができたから。また、ちょっと先に圧倒的に豊かな社会が見えたから。だから人は諒解できたのではないか。もちろん、公害で苦しんだ人、コミュニティーがあったことを忘れてはいけない(まだ解決されたわけではない)。縮退社会では格差や不公平感が大きくなるだろう。負担を分かち合う仕組みが必要になる。また、人の苦しみの背後にある事情を理解し、良い方向を導くための精神的習慣が必要になるだろう。しかし、それは困難なことでもある。しばらくは異なる価値観の間でコンフリクトが生じるだろう。それを乗り越えるための基本的な考え方、哲学や理念といったものがますます重要になってくる。未来は創りあげるものだから。道はまだまだ遠いが、ひとつ重要なことは"人と自然のつきあいかた"だろう。それに対する考え方も千差万別だろうが、私は人と自然の無事(事も無し)ということを愉しめる習慣がベースにあると思います。

  複雑なものを複雑なものとして捉えること

新型コロナ禍で経済活動が停滞し、その結果、炭素の放出が少し減りました。しかし、人々の暮らしに与えた影響は多大です。それでもパリ協定を達成に必要な減少量に達していないようです。ではどうしたら良いか。根本的な社会の変革が必要だと思うのですが、まず意識の変革を促すために、複雑な世界を複雑なものとして捉える習慣が必要なのではないかと思います。20世紀までの世界は、世界を単純なものとして捉える考え方の上に構築されたものではないかと思います。ノイズを捨象して原理を取り出すことによって20世紀を駆動した技術が産み出され、豊かさが達成されました(先進国では)。しかし、ポストコロナの世界を創るためには複雑な世界を複雑なものとして直視することが必要ではないか。それは地域を尊重するということ。グローバルがグローバル資本主義の意味ではなく、世界の中の地域が先端技術で繋がりながら、地域の暮らしが尊重されている、そんな世界を構築できるとよいと思います。

  脱線こそが授業の意味ですと

朝日朝刊でちょっとうれしい投稿があった(7月28日)。14歳の中学生、咲葵さん。「先生の解説・脱線 授業は楽しい」。教科書があるのに、どうして授業が必要なのか。脱線こそが授業の意味であり面白さだと思うと。我が意を得たり。うれしいですね。でも喜んでばかりはいられない。"人と自然のつきあいかた"学などないし、まして体系などない。脱線の内容だけでなく、脱線の極意を伝えなければならない。それは"関係性"だろうな。環境社会学ではリンクと呼んでいるが、この世界は関係性の網でできあがっている。紐の一本一本をたどって、世界の構造を理解しようとする習慣が必要なのだ。もっともらしいが、なんでも取り込んでやるという精神の元で、自分で勉強してね、ということ。

  グローバルの意味

確認のため、広井良典著「ポスト資本主義」(岩波新書)から引用しておきます。234ページにあります。
・・・世界をマクドナルド的に均質化していくような方向が「グローバル」なのではなく、むしろ地球上のそれおれの地域のもつ個性や風土的・文化的多様性に一時的な関心を向けながら、上記のようにそうした多様性が生成する構造そのものを理解し、その全体を俯瞰的に把握していくことが本来の「グローバル」であるはずだ。」
広井さんは哲学者なのですが、これを読むと地理学徒なのではないかという気もします。本体価格\820なので、興味を持った方はどうぞ。なお最近彼はいい仕事をしていますね。AIを使って未来のシナリオを作成していますが、AIに使われるのではなく、AIを使っていると思います。検索してみてください。

  ポストコロナにおけるキャリア

学生の皆さんにとって一番の心配事はキャリア計画ではないかと思います。新型コロナ禍の教訓は、フローに依存しすぎることなく、十分なストックを持っておくとよいということだと思います(講演要旨の追記に少し書きました)。 とはいえ、貨幣のストックを待つことは簡単ではありません。知識、技能、経験のストックなら学生時代に蓄積することはできると思います。その上で、世界の有様を俯瞰し、すなわち可能な限りの関係性(リンク)を探索する努力をし、未来を展望し、その中に自分を位置づけることで見えてくるものがあると思います。多様な生き方が見えてくると、楽になるのではないかな。

  人と自然のつきあいかた

未来を展望するときにやはり一番大切なことはこのことを考えることだろう。我々は常に発展、進歩する古いヨーロッパ思想に囚われすぎている。こういうと自分でも夢がなくなったなぁ、と思うのだが、誰でも宇宙に行けたり、何でも便利になったり、それを維持する無限のエネルギーがあったり、そんなことはないのではないかと思います。産業革命以降の人類の歴史はちょっと異常だった。あまりにも地球に与えたインパクトが大きくなり、この時代を人新世と呼ぼうとしているようですが、遙か未来から見たら、今の時代はかつてあった小惑星の衝突のような一イベントにしか見ないのではないだろうか。人の幸せは、人-自然-社会の間の無事(事も無し)にある。人と自然の関係性を諒解し、安心して、楽しく、少し豊かに、誇りを持って家族と暮らすところにある。縮退の時代はおそらく多様な考え方が出てきて、進むべき道は曖昧になってしまうかも知れない。そんな時代だからこそ、自分の考え方を持つとともに、その根拠をしっかりと説明できるようにして、主張そして議論をしながら進むしかないと思います。 ポストコロナ社会に向けて多様な考え方が出てきましたので、しっかりとアンテナを張って、取り込むとともに咀嚼して、柔軟に生きていってほしいと思います。

 生活圏科学ホームページ 質問は kondoh@faculty.chiba-u.jpまで(半角にしてください)