課題に対するコメント 

書き下ろしですので、ミスタッチや意味が通りにくいところもあるかもしれません。修正しますので、ご容赦ください。 また、意見・異見があったらメールください。追加します。

はじめに

事前課題に使ったスライドが学会発表で研究者向けだったので、難しかったかも知れません。でも、大学の教員はみな研究者ですので、教員の立場になって、教員が見る世界を想像してみるというのも、エンパシーの訓練になるのかも知れません。勝手なことをいっていますが、"人と自然のつきあいかた"は人の生き様と関連すると思います。みなさんもじっくり自身の生き様を考えてほしいと思います。

 "変わる"と"変える"

課題ご苦労様でした。思うままを書いてくれれば良いので、そんなに大変ではなかったと思います。さて、設問の仕方によったのだと思いますが、ほとんどの方は"変わる"と書いてくれました。"変える"というところまで踏み込んだ書き方はなかったですね。私が最近感じることは、未来はわからん、ということ。だからこそ、未来に対する理念を持ち、そうなるように努力することが必要だと思います。もちろん、社会を変えるということは世代単位の時間がかかるものだと思います。しかし、以外とできるのではないかと思います。MDGsやSDGsが誰のどんな努力によって出てきたのか。背景にはグローバル資本主義の功罪と、途上国のしたたかな戦略があるように思います。"変える"に考え方をちょっと変えてみませんか。

 テレワークという働き方

結構好感的に受け入れられているようです。ただし、この働き方について深く考えてみる必要がありそうです。テレワークはジョブ型雇用に対応した働き方だと思います。となると、契約が必要になり、成果が厳密に評価されるということになるだろう。ジョブ型で管理できる仕事というのはパーツに分解できる仕事ということで、創造的な仕事とはちょっと離れてしまうような気がしますがどう思いますか。メンバーシップ型でかつジョブ型雇用というのはあるだろうか。実際にはいろいろな会社があると思われますので、きちんと見極める必要があるでしょう。

 百姓という生き方

テレワークについて考えていて思い出しました。ジョブ型テレワークでは時間は自由になるが、収入は減ってしまうのではないか。だったら、副業をたくさん持てば良い。それが百姓という生き方(確か内山節の著作にあった)。百姓とは百の技能を持っているということ。ひとつひとつの技能が稼ぎにつながるというわけです。例えば、半農半Xという生き方はずいぶんと話題になりました(検索してください)。こういう生き方ができればテレワークを取り入れた生業も可能なのではないだろうか。ただし、自身を取り巻くコミュニティーの存在は必要なのではないかと思います。

 オンライン授業で伝えられるもの

千葉大ではメディア授業と呼んでいます(なんで講義ではなく、授業を使うのだろうか)。結構好感を持って受け入れられているようです。ただし、質に差があるという声は聞こえてきていますが、技術と経験である程度向上させることはできるでしょう。私は体系ができあがっている学問はオンライン授業でできると思います。しかし、環境学のような"関係性探究型科学"はたくさんの対象や事例に対する授業を積み重ねて、様々な事象や(環境を構成する)要素の関係性を伝えて行かなければなりません。これではコンテンツの量は膨大になってしまいます。関係性探究型科学は自分で努力して積み上げ型で学んで行かなければならない分野です。私は老いたので、通常の授業では脱線を旨としています。その都度、様々な関係性を提示します。だからコンテンツはいつも最後まで終わらず、余ってしまうことがよくあります。自分で勉強できる範囲は自分で勉強してもらうしかありません。日本はそれだけの情報が揃っている国です。私はテキスト型にしたので、雑談もできますし、様々なリンクを張ることができます。みなさんはリンクをたどって関係性の網の目をたどることはできたでしょうか。

 信頼の醸成

仕事では信頼を醸成することがなによりも大切だと思います。それは研究や事業でも同じです。オンライン化が進むと人はどうやって信頼を醸成するのか。私は昭和の人なので、人と人の交歓が大切だと思っています。それによって、もうちょっと任せてみようか、もうちょっと頑張ってみようか、という気持ちが生まれ、それが成功に繋がることがあります。そんな時代ではなくなったのでしょうか。いやいや若者も案外シニアと同じなような気がしますが。さてオンライン化が進んだ社会で皆さんは信頼をどのように創りあげますか。

 オンラインが変える大学

あるいはオンラインにより変わる大学。大学は学生に伝えるべきものをちゃんと伝えているだろうか。オンラインになれば内容の優劣は明らかになります。伝えるだけの授業では大学間の差は小さくなると思います。特に体系のある学問領域はコンテンツさえ買ってくればどこでも一緒ということになると思います。昨今の大学は高校に限りなく近づいているように見えます(文科省の意図しない方針なのですが)。学生が大学に求めてるのは何なのだろうか。高度な専門的知識、それとも生きる力だろうか。文科省は"生きる力"にはうるさいのですが、それが何なのかは明らかではありません。生きる力とは、この世を俯瞰して自分を位置づける力、そこで生業を持続させていく力といえる。それにはやはり脱線が良いのではないだろうか。基礎ができていれば応用ができるわけではない。脱線が導きになります。オンライン脱線授業。テキストベースでは結構行けるかもしれません。

 地方の時代-地域型社会への移行

こういうコンテクストの内容を書いてくれた学生がたくさんいました。私もそう思います、いや、そうしたい。では、どうやって地方を強くするか。実は基本的な考え方と事例はたくさんあります。地域創生というのはたくさんの小さな地域の成功例を集めて、つなげて、大きくして、ブレークさせる、とても時間がかかる地道な作業です。一方、地方衰退というのは結構簡単に統計値を使って一般論で説明できてしまう。成長の時代は一般論でものごとを進めて行くことができますが、縮退の時代は一般論は使えません。地域ごとに様々な条件、事情があるからです。この世の中の見方を根本的に変えていく必要がありますが、高校「地理総合」の必履修化は少しずつ変わっている兆しなのではないかな。日本の国土のあり方については第二次国土形成計画や、第五次環境基本計画地域循環共生圏などいくつかあります。私は、農村計画学会で情報を仕入れたり、「季刊地域」、「現代農業」といった雑誌や論文で現在どんなことが進行してるのか、常にチェックしています。我々が望んで行動すれば、強い地方と、幸せを創ることができる。

 変わらないという考え方

こういう考え方もありました。変わらないんじゃないか、という考え方を否定はできません。でも、なぜ変わらないか、という点を考えていく必要があると思います。まず、自分の意識世界の点検が必要です。見えていない"世界"はないか。世界の総体を認識して、現状を理解すること。そうすると考え方が変わるかもしれません。それでも変わらないという意見があったら、それは資本主義の圧倒的な手強さにあるのかもしれません。相田みつをも「金が人生の全てではないが 有れば便利 無いと不便です 便利のほうがいいなぁ」という詞を残しています。貨幣は魅力的で、大きな力を持っています。貨幣の増殖を目的として、そのために市場の永久的な拡大を前提とする資本主義に問題はないでしょうか。変わらないかも知れないが、変わらない世界ではどんな幸せが得られるだろうか。

 自然との関わり

これからは自然と親しむ様になるだろうという記述がいくつかありました。私たちは自然とうまくつきあっていかなければなりません。それがこの授業の観点ですが、ここでは自然を愛でるということ意味にとります。誰でも自然の景観は好きだろうなと思うのですが、それを確認したいという思いもありました。都会で育った若者はひょっとしたら緑の中にいるよりも、都会の雑踏に中にいた方が落ち着くのではないか。でも、みんな自然は好きだと思います。福島ではたくさんの方々と交流できましたが、皆さん、自宅の前に広がる景観に誇りをもっていました。それを何とか取り返したいという思いに応えた数年間でした。もともと日本には自然という概念はなかったという。自然はジネンと読んで、それに対立するものとしての人はなかった。すなわち人も自然の一部だったという。自然と人が対立するようになったのは明治以降で、それはヨーロッパ思想の影響と、都市の発達があったのかもしれません。しかし、自然を愛でるこころは人のDNAに刻み込まれているように思います。時代を時間軸で俯瞰した時、現在から繋がる未来では自然とどう関わっていくか。それはすでにSDGsにも書かれていますね。

 コロナとの闘い、共存、共生

コロナウィルスは自然のものです。新型コロナウィルスとの闘いというのは時間スケールを一番短くとったときの人類の生存に関わる行為です。ウィルスを排除する必要があるのは、現在生きている人の安全、安心を確保するためです。時間スケールを中間スケールで考えると、ウィルスとは共存して行かざるを得ません。人間活動によって新しいコロナウィルスが人間圏に広まるリスクは排除できません。さらに時間スケールを長くとると、否応なく人類はコロナウィルスと共生してきたわけです。子供が母親の胎盤の中で異物と認識されずに成長できるのはウィルスから受け継いだ遺伝子があるからだという。この機能を獲得するために人類は多くの犠牲を払ってきたのだろう。コロナウィルスと人の関わりは時間軸で捉える必要があります。では、コロナウィルスがその"ふるさと"で事も無く過ごすことができる社会を私たちは創りあげなければならないのではないか。

 ひとり

自粛生活を送ることで、社会から離れた個としての自分を感じた、という記述がありました。こういう個は英語のindividualで、ヨーロッパ的な個人ともいえると思います。個になって社会を眺めたとき、その社会がどんな様子なのか、しっかり見てほしいと思います。こういう個人は大和言葉では"ひとり"というそうです。宗教学者の山折哲雄の著作にありました。集団や組織から離れたところにいて、それらを俯瞰することができる存在。大和言葉はいいもんですね。そうすると、今まで見えなかった新しい集団や組織、あるいはコミュニティーが見えてくるかもしれません。都市的世界ではなく農村的世界の有様も見えてくるかも。自分との関わりを探せば、新しい道が見えてくるかもしれません。視野も広がり、自然というものも大きく視界の中に入ってくるかもしれません。俯瞰するためには情報集めも必要です。私は本を読むのが良いなと思います。これだけ本が揃った国は世界の中でも少ないことは海外に行くとよく解ります。この日本のメリットを最大限に享受してください。

 劇場型世界

ニュースを聞いていると不安になってしまうが、ニュースを閉じてしまえば、心静かに過ごすことができるという記述がありました。それを読んで、この言葉を思い出しました。テレビやネットからは世界各地のニュース(それには悲しいことも非人道的なことも含まれています)が、一端テレビやパソコン電源を切ってしまえば、画面の向こう側との関係性は途切れてしまう。でも、現実は確かにそこにあるわけです。ニュースには一定レベルの真実が含まれているので(質の良くないニュースもありますので、ついこんな表現になりました)、真実を読み解くこと、同じ時間を生きる人間としての共感(エンパシー)を持つことを心がけてほしいと思います。もちろん、何かしらの義務感に囚われることはありません。まず一人が幸せになること、そうすると個人の集合体としての社会、世界の幸せに繋がります。仏教の考え方にあります(実はいろいろあるのですが)。

 結局、人と自然のつきあいかたは

自然の成り立ちを知ること、最も基礎的な知識で良いのでメカニズムを知ること、人と自然の関係性を知ること、リスクだけではなくベネフィットも同時に知ること、時間軸を長くとって人がどのように自然の中に進出したのかを知ること。空間的に理解を試みること、すなわち場所によって違うということを理解すること。こんなもんでしょうか。手っ取り早くこれらのことを知る方法は高校の時の地理学と地学の教科書を読み返すことです。地理学がわかれば、どう自然とつきあうか、考えることができると思います。答えは一つではありません。あなたが考えて、あなたの考え方を持つこと。そうすればどうつきあうか、諒解を形成することができるでしょう。

 都市のあり方の修正

私もそう思いますし、そうしてやろうと考えています。今の大都市、特に東京大都市圏は様々なハザードに対して極めて脆弱です。大地震、大洪水は極めて近い将来、必ず発生します。それが災害になるリスクは十分発信されています。なぜ日本はリスクに備えることができないのだろうか。また、一時は首都機能移転も議論されましたが、それが止んでしまったのはなぜだろうか。それはグローバル資本主義の中で覇権をとらなければならないという思い込みではないだろうか。これは難しい議論になりますが、それは安全・安心とは何か、幸せとは何か、といった課題と関わります。もちろん唯一の答えといったものはないのですが、常日頃から話し合うということが大切なのではないかと思います。

 地方のダダ漏れ経済

ではどうしたら良いか、を考えなければなりません。人が地方に回帰して、地方を持続可能にするためには経済システムを変えなければなりません。今、地方でも様々な企業が経済活動をしていますが、収益が都市(にある会社、本社)に吸い取られてしまうこともあるでしょう。これが地方のダダ漏れ経済です。そこで、地域の中で資金、モノを循環させることによって地域経済圏が成り立つという考え方があります。例えば、パンは地元の粉を使い、地元の店で販売する。そうすることによって資金が都市に吸い取られることがなくなります。地産地消の重要性は地域で回すお金にあるのです。お金のダダ漏れを止めて、地域で循環させる。こんな取り組みはすでに地域で始まっています。

 田園回帰

何人か田園に対する憧れを書いてくれた方がいました。田園回帰とは私のようなシニアが退職後にのんびり田舎で暮らす、といったことだけではありません。20代、30代の若者の地方への移住は確かに増えています。田園回帰で検索するとたくさんのエビデンスが出てきます。これは農村計画学や地理学の分野の重要研究課題となっています。調べて見てください。関心があったら総務省の「地域おこし協力隊」のような制度もあります。実行可能です。

 都会の便利さ

これがあるから田舎に移住は考えてしまう、という意見もありました。都会は便利です。でもその便利は何によって支えられているのか。一つは税金。先にも書きましたが、鷲田清一によると「日本は近代化の過程で、行政、医療、福祉、教育、流通など地域社会における相互支援の活動を、国家や企業が公共的なサービスとして引き取り、市民はそのサービスを税金やサービス料と引き換えに消費するという仕組みに萎えていった」(「しんがりの思想」、角川新書)。これが精神的習慣として定着してしまっているが、これが都市の便利さを形成しています。それが依存を生み、クレームを付けるだけの無力な国民を形成してしまったという。さて、こんな社会は持続可能だろうか。地方ではまだコミュニティーが生き残っており、それがつきあいの煩わしさと認識されることもあるが、実は強靱な地域を形成する源ともなっている。都会の便利を深掘りすると脆弱さが見えてきます。

 社会における人の個別化

社会の個別化を心配してくれた方がいました。コロナ後は人の個別化が進んでしまうだろうか。私も心配しているところですが、それは都市の中で、パーツ化した仕事をやるような状況のなかで、人と人の分断が進んでいくのではないだろうか。顔の見えるコミュニティ-、意思が交流するコミュニティーの中では個別化は起こりにくいのではないかと思います。そんなコミュニティーを創るとしたら、やはり地域の小さな生業、つきあいから生まれてくるのではないかな。

 おわりに

まだ十分に答えることができていないように思いますが、疑問、質問、異見等ございましたら、岩崎先生を通じてお寄せください。

 Moodleフォーラムに頂いた意見

フォーラムで頂いたご意見に若干のコメントをさせて頂きました。 対面できなかったので、テキストベースの対話として、残しておきたいと思います。
(1)科学者には地域に深く入り込んで被害者と問題に対する価値観や考え,問題の解決を共有することが求められているのだというお言葉には確かにそうであると感じました。 小中高の授業で「環境問題を考える」というと水質汚染や酸性雨などをグローバルな視点から考えることが求められており、グローバルな視点を持つことに偏りすぎていて、逆にそれぞれの地域に存在している環境問題に触れる経験はなかったように感じます。 ローカルが集まってグローバルになっているのに、個々の事象を見ないでグローバルな環境問題を解決するというのは難しいのではないかと思います。 また、問題の被害者は誰なのか、被害者は何を望むのか、何をもって解決されたというのかを明確にするというのは問題を考える上で非常に重要なことだと感じました。
(近藤) グローバルとは何か、という問いかけが大切だと思います。私たちの精神的習慣(内山節がよく使うので私も使っています)に確固たる哲学、思想があったかというと、そうでもなかったということも多いと思います。グローバルに対しては、古いヨーロッパ思想や、それに駆動されるグローバル資本主義の中で、なんとなくグローバルが重要だということになっていたに過ぎないのだと思います。今、世の中ではローカライゼーションへのうねりが次第に大きくなっているように感じます。それがいずれあふれ出す潮流なのか、そうではないのか、あらゆる動きを注視して確認しなければなりません。といっても答えがあるわけでもないので、自分が確信したら未来を創るアクションを始めればよいのだと思います。
(近藤) 初等中等教育で、"グローバルな視点を持つことに偏りすぎている"というご指摘は日本の教育の課題だと思います。20世紀までの教育は数学や物理重視で、原理がわかれば応用ができる(普遍性重視)、という仮説に基づいていました。それは高度経済成長の基盤となった考え方だと思います。定常あるいは縮退社会に入った現在は、普遍性は下部にあるもので、その上にある地域性(個別性)を尊重することにより、持続可能な地域を創りあげる。その上で地域は世界と結びつくこともできる。そんな世界を目指す段階に入ったと思いますが、それを教えるのが地理学をはじめとする関係性探究型科学です。2022年度からの高校における「地理総合」必履修化はそんな流れの一つだと思いますが、20世紀までの慣性により、教員が不足しています。ここをどう乗り越えるかが、新しい世界の創造におけるひとつの壁なのかなと考えています。
(2)近藤先生が記入してくださった、人と自然の関係性を知ること、時間軸を長くとって人がどのように自然の中に進出したのかを知ることという言葉が心に残りました。私たち今を生きる人間が自然との関係を深く学び尊重し、次の世代に受け継いでいくために責任持った資源利用を行うことで、コロナウイルスが蔓延しゆく社会の中でより良く生き延び、持続可能な自然を保護することに繋がると考えました
(近藤) 昨夕(2日)は宇宙ステーションが日本上空を通過するということで見てやろうと待ち構えていましたが、晩酌をやりすぎて眠ってしまい、機会を逸しました。あそこに人間がいるのだなと思うと、何となくロマンチックなのですが、 宇宙ステーションを眺める私たちには直接見えないのですが、様々なバックエンドの要素によって維持されています。(鉱物)資源も含まれます。そこを知ることが大切かなと思います。アニメで異星人と闘っている最中なのに、豊かな食料が出てくる。誰が、どこでどのように生産し、どのように運んできたのか。超近代的都市が攻撃で破壊されるシーンを見ると、再建に必要な鉄鋼やコンクリートはどうするのかと心配になります。鉄とコンクリは生産に大量のエネルギーが必要で、CO2排出量削減のネックになっています。我ながら夢がないなと思いますが、それは自分が現在を定常ないし縮退社会と認識しているからで、永遠の成長を前提にできれば、考え方も当然変わるでしょう。それは前提にできるか。
(近藤) 自分はもともと地学で大学に入り(大学受験では物理・地学を選択しました)、その後、地理学に進みました。だから、時間軸と空間軸で人間の営みを観察するということに慣れており、当たり前の習慣の様に思ってしまうのですが、実はそれこそが教育における最重要課題なのかなと感じています。

 進行中の災禍をどう捉えるか。今まさに歴史に立ち会っているわけです。そんな時に、こんな話はいかがでしたか。