スライドの説明

少し息切れしています。空欄は事前課題の講演資料を参考にしてください。また、今までに書いた記事を講義HPの中でリンクしましたので、読んでください。"ひとと自然のつきあい方"の観点からは、自然の価値について山村の人々と、都市生活者の間で違いはあるのか、それとも共有できるのか、一緒に考えたいと思います。
1 ・人と自然の良好な関係性を築いてきたのが、里山といえます。最近は里地・里山と呼ぶようですが、人が利用することにより形成された二次的生態系といえます。
・この写真は福島県伊達郡川俣町山木屋地区です。人は広葉樹林を高度に利用し、生業に役立てると同時に、生きがいも得ていました。山菜採り、キノコ狩り、川魚漁、といった副業は人々に若干の収入と楽しみをもたらすものでした。
・人の手が入ることにより落葉樹林はきれいに整備され、永年にわたり維持されてきました。
2 ・幸せとは何か。貨幣を増殖させて、贅沢な暮らしをすることではないことは確かでしょうか。
・哲学者の内山節がいうように、人と自然の無事(事も無し)が、先祖から子孫にわたって継続する家族と地域の幸せということだったのではないか。
・都市が拡大し、市民のほとんどが都市に住むようになったのは、歴史の中ではごく最近のことです。
・新型コロナ禍を経験し、みなさんの暮らしは変わりましたか。その変化はこれからどうなると思いますか。
3 ・意識世界はまだ固まった用語ではないのですが、この世界を俯瞰するときに重要な考え方だと思います。
・ある考え方が、どんな意識世界を背景にしているのか、あなたの意識世界の範囲はどのような広がりを持つのか。
・人の意識世界を考えながら、日本や世界のあり方を考えるとわかることがたくさんあると思います。
4 ・また、自分の知らない意識世界を知るということは、あなたの視野を広げることになります。
・原子力災害に対する対応は地域ごとに様々でした。川俣町山木屋地区ではこのように事態が進行しました。
・他の地域と異なる山木屋地区独自の事情もあるのですが、それは質問してください。
5 ・問題とは何でしょうか。また、その解決とは何か。
・新型コロナ禍ではウィルスによる感染のメカニズムの解明が唯一の課題ではなく、災禍に伴って生じている様々な問題、特に生業の継続性の危機、などたくさんあります。
・事実の背後に様々な真実があります。
6 ・問題の解決とは諒解です。そこで必要なのは信頼ですが、それを醸成するには科学的あるいは経済的合理性だけではなく、共感(エンパシー)と理念が必要です。
・福島では科学者によるリスクコミュニケーションがうまくいかない事例がたくさんありました。
・それは、共感と理念の基準の共有ができていなかったからだと思います。
7 ・原発事故の後に文科省が作成した副読本です。ここでは、人工放射線と自然放射線にわけて、人工放射線の被曝はメリットにもつながること、自然放射線が高い地域もあり、飛行機に乗ることによっても被曝することが述べられています。
・しかし、この中には事故による被曝が含まれていませんでした。図の中にもう一つの被曝として加筆してあります。
・事故による被曝を認めることは、共感基準に相当すると思いますが、皆さんはどう考えますか。
・なお、国による避難指示解除の基準が年間追加被曝線量20mSvで、バックグランドが1mSv程度と考えられます。よって、この二つの数字の間の被曝は事故による被曝といえます。
8 SDGsの目的は社会の変革です。SDGsの公式文書を見てください。まずは序論を読んでください。書いてあるでしょう。直截的には書けないことなのかも知れませんが、私たちはSDGsの心を酌む必要があります。

SDGsをサポートする研究者のイニシアティブがFuture Earthです。Future Earthも始まって5年経ちますが、まだまだ道半ばです。いかに"社会の変革”が困難な課題なのか。でも、達成しなければならない課題だと考えています。
9 あらためてこのダイアグラムを見る。科学は社会との協働の段階に入ったと私はいいたい。以下は再掲です。
・福島では文科省・規制庁のサイエンスチームとして活動もしましたが、主に帰還を望む方々との協働作業として帰還を目指した活動を行ってきました。山木屋地区のある川俣町の除染検証委員も務め、現場の作業、住民説明会などの体験を通じて考えたことは、科学者は科学的合理性の壁を越えなければいけないということでした。
・なぜなら解決とは合意形成、すなわち諒解であり、諒解を形成するためには科学的合理性に加えて、共感(sympathyではなくempathy)と理念(どんな社会、ふるさとを創るか)の基準が必要だからです。これは環境社会学における共感基準、原則基準、有用基準と同じと考えられます。
・この3つの基準を満たすフレーム(黄色の枠)は帰還を希望する人々を含むフレームだけではなく、霞ヶ関と科学者を中心とする日本、世界をフレームがあるように見えました。異なるフレームをどのように包摂したらよいか。その時、考えたのがPielke(2007)のHonest brokerでした。
10 以下も再掲。
・問題解決のためにはステークホルダーと解決を共有する必要がありますが、ステークホルダーには階層性があります。それをここでは市民レベル、地方政府レベル、国家・世界レベルとしてみました。

・市民レベルでは世界観はローカルで、地域固有の条件を重視します。国家・世界レベルになると、世界観はグローバルで普遍的な価値を重視するといえます。
・ここでローカルを上、グローバルを下に書きましたが、普遍的(どこでも成り立つ)ということは物事のベースになければならず、その上にある個別性を理解しなければ問題は解決できないという意味です。
・問題は、それが地球環境問題であろうと、問題は地域における人と自然の関係性を問題として現れるからです。
(ここの考え方は内山節の哲学に影響を受けていると思います)
11 2011年3月11日直後を思い出せますか。上の衛星画像は左が東北太平洋沖地震の翌日。中央は14日ですが、この時、阿武隈の人々は津波被災地からの避難者の支援者でした。

左下は14日に福島県が飯舘村役場の前庭に設置したモニタリングポストのデータです。職員が30分に一回目視で読み取っていたそうです。15日の午後に空間線量率は急激に増加します。その時の状況を想像してください。

15日は午後から雨が降り始め、夕方は雪になりましたが、それが放射性物質の"湿性沈着"をもたらしました。その雪の中で大人たち、子供たちはどう過ごしていたか。
12 その時、研究者はみな福島の現場で科学を役立てたいと思いました。その方向性は大きく分けて二つありました。

どちらも正しい。その違いは対応したステークホルダーの違いだと思います。
13 科学者の役割は沈着した放射性物質の量と分布を明らかにすることだという共通の認識がありました。そこで、福一80km圏で土壌のサンプリングを行うキャンペーンが実施されました。その成果により、広域の沈着量が明らかになりました。すなわち、μSv/hourではなくBq/m2(単位面積あたりのベクレル数)で議論できるようになりました。

6月4日から約一ヶ月間で行われたキャンペーンには全国からのべ1000人を超えるボランティアが集まりました。原子力工学の学生が必死になって取り組んでいた様子が忘れられません。

このキャンペーンで古殿町に行ったときに、役場の方が、この山の向こうに日本人最初の宇宙飛行士が帰農しているという話を聞きました。それが元TBSアナウンサーの秋山さんです。人類が産んだ最先端技術であるソユーズで宇宙から地球を望んだ秋山さんは、その後、思うところあり帰農することになりましたが、図らずも文明の利器の事故により生業を失うことになってしまいました。
14 若いときはプログラミングは得意だったのですが、突然放射性セシウムの移行シュミレーションをやることになり、不安だったのですが、できました。若いときに身に付けたスキルは血肉となっていました。

場所は口太川流域で下流(左側)で阿武隈川に合流します。山木屋地区は最上流部。地表面に沈着した放射性セシウムが侵食され、少しずつ斜面を流下し、河道に至るという現象をモデル化しました。
15 当初文科省、規制庁のサイエンスチームで仕事をしていたのですが、こんなことがありました。放射性セシウムの移行をモデルで計算すると、系リュの合流点にはセシウムがたまる場所がある。ホットスポットの形成です。それを発表すると、規制庁の担当者から、住民が不安に思うので、その部分は削除してください、とのこと。

そんなことは山村で暮らす方々には自明のことであるのですが、都会で暮らす担当者にとっては最大限の"思いやり"だったのかもしれません。都市と農村で人と自然の関係性に関して、ズレが生じてしまっていると感じました。

そんな中でも避難区域の外側では暮らしを維持するための取り組みが行われています。311からちょうど1年後に出版された本が右下にあります。二本松市東和地区の試みに興味があったらここを訪問してください。 (会社としてのきぼうのたねカンパニーは終了しているとのことですが、現場で何とか暮らしたいという活動はたくさんあります。それを支援することが安産な場所にいた私たちの役目なのではないだろうか。
16 私たちはどんな世界に住んでいるのだろうか。グローバル化した社会の中で均質化を目指すのか。それでも良いが、その暮らしは様々な関係性(食料、エネルギー、資源、...)によって維持されていることを忘れてはならないだろう。

地域の中で、持続可能な暮らしを営む生き方もある。なにより、世界はたくさんの地域から構成されている。グローバルの上位にあるローカルが多様な幸せを育むといえるのではないか。
17 2011年は車に線量計を積んで福島を走り回りました。なるべく幹線から離れた林道を走り、自家用車で走れないところは軽トラを借りて測りました。

この図は小縮尺の図ですが、地域ごとの空間線量率マップを見たときの、未来に対する展望は希望と諦めの二種類がありました。ある地域ではもう戻れないことの根拠に使われました。しかし、別の地域では、まだ戻れることの根拠になりました。人にとって未来は最初から決めている、といっても良いのではないか。

安全なところに身を置いて、住んじゃいけないのだよ、住めないのだよ、と人ごとのごとく言い放つのではなく、現場に身を置いて、希望のしっぽを掴もうとする態度を尊重したいと思う。
18 山木屋のある農家です。家の脇には牛舎があり、生乳を生産していました。裏山の斜面の木が刈られている場所では夏には牛を放していました。右奥の谷底は葉たばこの畑でした。上質な葉たばこの生産には落葉堆肥が欠かせず、裏山の広葉樹の落葉は貴重な資源でした。古い地形図でこの場所を見ると谷の中に尾根があります。伺ったところ、“じいさんと二人で開墾したんだ”、とのことでした。家の前は水田で、畑やハウスもあり、多角的な経営をされていたことがわかります。おじいさんの楽しみは山菜、キノコ採りと炭焼きでした。手前の開けている場所は、震災前に椎茸栽培のほだ木として落葉樹を出荷した場所です。福島はほだ木の産地でした。ここには密接な人と自然の関係性がありました。
19 2012年は線量計を背負って山の中を歩き回りました。それは、"山がないとおれたちは暮らしていけない"という声をたくさん聞いたからです。

場所は山木屋乙二地区というところですが、山林における地域ごとの線量の分布や地形、植生による不均質性がわかってきました。

イノシシが目の前を横切ったり、集団がブヒ、ブヒ、ドドド、と音を立てて近くを走り去ることもありました。
20 文部科学省は原発事故後航空機による空間線量率モニタリングを行いました。右の図は皆さんも見たことがあるでしょう。

この調査結果は避難区域の線引きに使われました。緊急時には役に立ちましたが、その後の帰還を目指す段階では、阿武隈山地がべったりと汚染されているという印象を与えてしまったかも知れません。
21 実際の空間線量率の分布(よって沈着量の分布)はかなり不均質です。だから空間線量率をきちんと測ってやれば、除染を含む放射能対策を提案できるのではないか。

ここでは帰還という目的の達成を地域と共有して作業を行いました。もちろん、帰れない人、帰りたくない人、いつかは帰りたい人、様々です。答えはひとつではない。自分が協働するステークホルダーを見つけたら、その方々のために働けば良い。

"人と自然のつきあいかた"には普遍的な唯一のやり方はないのだから。
22 山村では農家は里山流域を抱えている。そこの空間線量率分布を計測し、汚染がひどい部分を処置することにより暮らしを取り戻すことができる。

そう考えて実施した除染実験です。その効果は確実にあったのですが、それより大きな成果は学生をはじめたくさんの人が集い、目的の達成を共有して、一緒に作業を行ったということかもしれません。
23 調査結果に基づき、様々な提案を行いました。特に山林の放射能対策に対する要望を提案書に書き込みました。緑化工学会で承認して頂き、関係諸機関に配布しました(千葉大園芸の小林達明氏の尽力)。

その効果はあったのか。少なくとも国は山林の放射能対策を検討するという段階まで進むことはできました。

しかし、避難時では、人々の最大の関心は生業をどう復活させるかということにあったことは確実です。あれから10年、山林の放射能対策は進むのか、それとも忘れられてしまうのか。
24 2011年のゴールデンウィークの頃、東電は電気料金の値上げを打ち出しました。ある首都圏に暮らすニュースキャスターが"私たちには関係ないことなのに"といったことが耳に残っています。

東電の電気を使う首都圏の住民にとっては関係ないことではないことは自明です。それでも関係ないということは、貨幣に価値を変換して電気を購入することにより、その先との関係性を分断させてしまう貨幣経済、資本主義の本質に問題はないでしょうか。
25 科学者にとってステークホルダーとは何なのか、誰なのか。若い頃は見栄えの良いグローバル研究を志したこともありました。

しかし、齢を重ねて地域(ローカル)こそ"人と自然のつきあいかた"を考える基本だと思うようになりました。

ローカルにおける人と自然の無事(事も無し)こそが(内山節より)、持続可能社会のあり方なのだと思うようになりました。
26 科学と政策の関係も考えるようになった中で出会ったのがこの本ですが、JpGU講演資料を参考にしてください。
27 千葉県の四街道市に避難してきた浪江町の方の写真を知人を通じて頂いたものです。遠くに福一原発が見えます。

津波、原子力災害の複合災害となった方々の立場をわがこと化してほしいと思います。

"犠牲のシステム"という言葉を使いましたが、日本の公害の経験からの発想です。当時は高度経済成長を遂げるために、ローカルが犠牲になった時代です。それを繰り返してはならないという思いです。
28 川俣町山木屋地区除染等検証委員会ではいろいろな経験をすることができました。

当初はICRPの報告に基づき国が指定した年間追加被曝線量20mSvとバックグラウンドと考えられる1mSvの間を事故による被曝として、きちんとモニタリングしながら1mSvとの差に応じた賠償を請求しようという案を出したこともあります。

しかし、行政は国とケンカすると損をする、帰還を望む住人は国に楯突いて帰還が遅れるのは困る、ということで廃案になりました。

人にはいろいろな思い、事情があり、あるときふと方向性が一致することもあるのです。なお、帰還できない方々に対して配慮を求める"複線型復興"という言葉を序論に入れました。
29 避難指示解除から1年が経ち、山木屋を桜の里にしようという試みが始まりました。

阿武隈の桜は三春の滝桜が有名ですが、実は桜の古木はあちこちにあります。4月の阿武隈は桃源郷のような雰囲気です。
30 人はふるさとに還る。避難指示解除後3回目の山木屋地区のお祭りです。

舞は小学生と決まっているのですが、避難しているところから来てくれました。この地で営農することを決めている若者もいます。

暮らしとは何でしょうか。家とはなんだ。それはふるさとであり、ふるさとの景観と人をすべて包含するものなのだと思います。
31 未来を語るには理念、哲学といったものが必要だと思います。

その実現には永い時間がかかります。そのことを共有して強い気持ちで未来を創っていく必要があります。

未来のあり方は語り続け、強固にしていかなければならないと思います。
33 これも事故後、ある有名なニュースキャスターが日曜日の報道番組で言っていた言葉です。

原子力で発電した電気を使っていた我々が、原子力の仕組み、コスト、リスクに無頓着であるならば、それは我々が"文明社会の野蛮人"であることを証明しているのと同じではないでしょうか。
33 原子力発電所事故の報道を受けて、最初に思ったことがこのことでした。

我々の未来は"共貧のシステム"と"緊張のシステム"のどちらかに進むのか。いや、二つの世界を共存させ、人がどちらも行き来できる社会を構築できないだろうか。

この考え方は、福島で山村の暮らしに触れるたびに強化されていくことを感じました。
34 2011年春期は多くの学会が学術大会を取りやめる中、農村計画学会は大会を開催し、会員のステートメントを集めて出版しました。

その時に書いたことです。学会誌に印刷されて残っています。私にとってこの実現が夢となりました。
35 かつて科学者は対象との間で価値を分断し、第三者的な立場から扱うことが当たり前とされてきました。

それは高度経済成長が可能とした科学者の天国だったと思います。現在は定常社会あるいは縮退社会です。科学者は"社会の中の科学、社会のための科学"(1999年世界科学会議、ブダペスト宣言)を目指さなければならない時代にはいったと思います。
36 向こうに見える丘は、除染地に敷く砂をとるためにハゲ山になってしまいました。ここを花木公苑にしようという活動が行われています(千葉大学の小林達明氏)。

山木屋は標高が高く、福島市で桜が終わった後に満開を迎えます。ここに桜が咲き誇る日を夢見て暮らしていきたいと思います。