スライドの説明 説明は8月1日までの間に若干の修正は行う予定です。文章の中に出てくるキーワードは検索して調べると良いと思います。

1 ・日本地球惑星科学連合2020年大会で、新型コロナウィルスによる災禍に対応して緊急セッションが開催されました。これは科学者コミュニティーに対して発信した内容ですので、学生の皆さんはそこを留意してください。。
・新型コロナ禍を経験しながら思い出したことは、福島における経験でした。それは“科学の成果があれば、問題が解決できるわけではない”ということです。よく言われることですが、問題解決に科学は必要であるが、それだけでは解決できない。トランスサイエンスとも言います。
・コロナウィルスは自然の側にいます。新型コロナウィルスによる災禍はウィルスと人間の関係性に関わる問題として発現しています。コロナウィルスとは共存、共生しなければならないのではないか。それができる社会とはどんな社会だろうか。そこでは、人と自然はどうつきあったらよいのでしょうか。考えることはたくさんあります。
2 ・福島では文科省・規制庁のサイエンスチームとして活動もしましたが、主に帰還を望む方々との協働作業として帰還を目指した活動を行ってきました。山木屋地区のある川俣町の除染検証委員も務め、現場の作業、住民説明会などの体験を通じて考えたことは、科学者は科学的合理性の壁を越えなければいけないということでした。
・なぜなら解決とは合意形成、すなわち諒解であり、諒解を形成するためには科学的合理性に加えて、共感(sympathyではなくempathy)と理念(どんな社会、ふるさとを創るか)の基準が必要だからです。これは環境社会学における共感基準、原則基準、有用基準と同じと考えられます。
・エンパシーはブレイディーみかこ氏によると、“他者の立場を想像して、理解しようとする自発的で知的な作業”ということです。
・この3つの基準を満たすフレーム(黄色の枠)は帰還を希望する人々を含むフレームだけではなく、霞ヶ関と科学者を中心とする日本、世界を見るフレームがあるように見えました。異なるステークホルダーのフレームをどのように包摂したらよいか。その時、考えたのがPielke(2007)のHonest brokerでした。
3 ・少し難しくなりましたが、Pielkeの科学者と政策との類型化については小野有五先生(北大名誉教授、環境活動家)のこの論文がわかりやすいと思います。
・①は純粋な科学者で政策には関心ありません。②は序論で環境問題に言及するが、直接政策には関わらない科学者と考えて良いでしょう。
・③は特定の課題(例えば環境問題、エネルギー政策など)についてステークホルダーと共同して政策を提言し、活動する科学者。④は総合的、俯瞰的立場から複数の政策を提言できる科学者です。
・近藤は福島では③だったと思いますが、現在では問題のフェーズが変わってきたので(帰還から暮らしへ)、公害やエネルギー問題を改めて、見直しました。その結果、様々な立場があることを理解し、④もようやくわかってきたように思います。
・現実には考え方を異にする③が存在し(スライド2の二つのステークホルダーの枠))、それらが対立したり交わらないこともあります。なぜか。それは人が意識する世界にあるのではないかと思います。
4 ・人の考え方は、その人が関係性を持ち、考え方を構築していく範囲で決まると思います(哲学者の内山節がどこかで書いていました)。それを「意識世界」と名付けました。この意識世界を想像すると、なぜある人がそのような考え方を持っているのか、何となくわかるような気がします。
・意識世界が分断されていると、合意、諒解が形成されにくくなります。典型的な分断として、都市的な意識世界と農村的な意識世界の分断があると思います。福島の原子力災害では、都市的世界がベネフィットを得て、農村的世界がリスクを負っていた構造が明らかになりました。
・しかし、エンパシー、あるいは包摂的(inclusive)といえるかもしれない大きな意識世界のフレームがあれば、問題の全体像を理解することができるようになります。
・新型コロナ禍では専門家のあり方も問題になっていますが、専門家は科学知をもって政策を提案し、政治家は総合力で決断し、行政が実行するという役割分担だと思います(本来ならば...)。
5 ・エンパシーは英語としては新しい単語だそうです。ブレイディーみかこ氏の著作で有名になりました。シンパシーとは違う、この言葉の意味を心に留めてください。
・きれいな彼岸花が咲いています。ここは山木屋地区(旧計画的避難区域)です。遠くに除染物質を納めたフレコンバックが水田だった場所に見えます。
・この花は双葉町にあったものです。ご自宅が中間貯蔵施設の建設場所になったため、山木屋地区に移植されました。奥に見える白と紫のジャケットのお二人の思い出の花です。この方々の意識世界と都会に暮らす私たちの意識世界は交わっているでしょうか。包摂的な意識世界を形成しないといけないと思います。
・こういう主張をすると(理工系では)情緒的と言われることが多いのですが、そうではなく、問題の人間的側面(human dimension)を考慮するべきである、すなわち、2枚目のスライドの科学的合理性の境界を飛び越える必要性を主張しています。
6 ・共感と並ぶもう一つの基準、理念は共有できるでしょうか。確かに困難なことではあると思いますが、資本主義の限界を主張する論考がたくさん出てきたように思います。それは新型コロナ禍だけではなく、気候変動でも同じです。グレタさんの言葉はまさに資本主義の仕組みを突いています。
・ここで資本主義と科学の類似性が気になります。資本主義の目的は貨幣の増殖であり、そのため永遠の市場拡大が必要です。(ちょっと穿った見方ですが)科学の目的は論文生産で、科学の永遠の進歩が前提にあります。しかし、科学の世界における競争は本質的な価値のズレを生んでいるように思います。
・特に環境に関わる問題では、同じ課題に対して異なる視点がありますが(理工系と人社系)、その視線が交わっていないようにも思います。⇒補足スライド参照
7 ・ここでは近藤が所属する理工系の科学者を対象としますが、現在の研究の成果を評価する基準は論文数、獲得予算と行った外形基準がほとんどです(学生のみなさんには難しいかもしれませんが、これが現実です)。研究の本質的な価値はどう評価したら良いのでしょうか。
・貢献基準も必要です。特に社会に対する貢献は必要だと思います。これがPielke(2007)で述べられた科学者の立ち位置とも関連します。
・そして、未来基準が必要だと思います。近藤は高度経済成長が始まったとされる昭和33年に生まれました。その後、低成長時代、バブル経済を経験しました。バブルの崩壊後は失われた十年(失ったものに気が付いた10年)を経て、911、リーマンショック、311、そして新型コロナ禍を経験しています。それが私の意識世界を構成しています。
・学生の皆さんを含む私たちは定常社会あるいは縮退社会の中にいると考えられますが、世の中には市場の持続的拡大を夢見る方々もいて、この社会を運営しています。現実はどこにあるのでしょうか。まさに、持続可能社会に対する哲学、基本的な考え方が必要な時代になったと思います。
8 ・では、ポストコロナ社会における研究者の立ち位置はどうなるでしょうか。「問題の共有」から「問題の解決の共有」へ進まなければならないと思います(環境社会学の教科書に書いてあったと思いますが、引用元を忘れています)。
・解くべき問題を四角のフレームで現すと、個々のステークホルダーの守備範囲は一部を占めるに過ぎません。でも、ステークホルダーが協働すれば、このフレームを埋めることができるかも知れません。環境社会学の鳥越先生の90年代に書かれた教科書からの引用です。
・これがSDGsのパートナーシップ、Future Earth(FE)のTransdisciplinarity(超学際)だと考えています(FEはSDGsを支援する科学者のプログラムです)。
9 ・「問題の解決の共有」に進むと、科学者の役割は相対化します。地位、名誉を競う科学者には物足りないかも知れませんね。でも世の中には常に底流があり、あるときそれが湧き上がってくるのだと思います。それは歴史から学ぶことができます。
・科学者の中にも気付いている方々がたくさんいます。上の二つは日本学術会議が発出する提言から持ってきました。ここで興味のある提言を探してください。
・下は最近はやりの「哲学対話」で有名な本からとってきました。世の中の底流は、いつか奔流となって出てきます。それに気が付くことが大切です。
・社会の底流、潮流はいろいろな場所に顔を出しています。それに気が付いてください。大学において自分で情報を探し、勉強するという態度が気付きを実現します。
10 ・未来社会はどんなものにしたら良いのか、難しい課題ですが、新しく考えなければならないのでしょうか。
・そんなことはなく、すでに十分考察された基本計画や提言がたくさんあります。そこに科学者も参加しています。官僚というと日本では良いイメージがないのですが、そんなことはなく、日本の未来を真剣に考えているすばらしい技術官僚の方々もたくさんいることを近藤は知っています。
・計画の策定には科学者も関わっており、研究の成果がちゃんと入っています。
・スライドにあるキーワードは検索して調べてください。ほかにも未来の設計図はたくさんありますよ。意識世界を広げ、これらの文書に取り組み、同意できるかどうか、考えてください。
11 ・しかし、いくら理念を述べても、実現できなければ意味がありません。実現の営みに参加する必要があります。その時に重要となる要素が希望、行動、楽観だと思います。
・誰でも議論に参加することができます。行動する機会はたくさんあります。そして、楽観することが大切です。
・私たちは軍事的脅威、貨幣経済の功罪、支配に対する不安に苛まれています。しかし、楽観することにより未来が開けるのではないかと思います。悲観は新しいものを生みませんので。
12 ・日本学術会議には地球惑星科学委員会というところがあり、 「地球惑星科学分野における科学・夢ロードマップ(改訂)2020」を先日発出しました。
・近藤は地球人間圏科学という分科会に所属していますが、この分野のロードマップを作成していたときに、二つの縦軸、二つの矢印を構成し、ある時にジャンプするという提案をしたことがあります。図中の二つの青い矢印です。
・事務局からテンプレート通りにせよ、との指令があり、今回の図柄になりましたが(真ん中の緑の矢印だけのもの)、新型コロナ禍はジャンプ(変革)を促しているのではないでしょうか(ふたつの青い矢印を結ぶピンクの矢印)。
13 ・かつて福島について東京で講演すると、“もう福島には住めないのだ、住んではいけないのだ”、と真面目に助言してくださる科学者がおりました。科学的合理性のみから判断した、よかれと思った助言だったのだと思います。
・しかし、ひとはふるさとに戻ります。そこには共感、理念があり、科学的合理性はほんの少し参考になるに過ぎないかも知れません。ひとと自然のつきあい方は人それぞれですが、科学だけでは判断できない人間的側面があるのです。
・ここで“ひと”と書きました。ひとは大和言葉で、生体としての人ではなく、心があり、暮らしの営みの中で生き、そして死ぬもの、という意味を含みます(宗教学者の山折哲雄の影響あり)。ひとは経済学でいうところのホモエコノミクスとは違うと思います。科学の立場からはホモサイエンスなんていうかどうかはわかりませんが、そんなものではありません。ひとというのは土地と強い結びつきがあるものだと思います。都市化が進んだ社会では土地(自然)とつきあうことが希薄になっていないでしょうか。
14 えらそうなことを、上から目線で話してきたかも知れません。自戒の念をこめて、ホッファーの言葉を残しておきます。

以下は議論用の資料ですが、説明はおりを見て書き込みます。
15 ・東日本大震災で多くの学会が学術大会を取りやめる中、農村計画学会は2011年春期の学会を開催しました。開催にあたり、会員からステートメントを募り、冊子にして配布しました。要約版が学会誌に掲載されています。
・その時、考えたことが、都市的世界と農村的世界を行き来できる精神的習慣を日本人が持てば、持続可能な社会を構築できるのではないか、ということです。
・それは、生態学者の故栗原康の「有限の生態学」にあった3つのシステムでした。
16 ・栗原先生は生態系には3つのシステムがあると述べています。
・「共栄のシステム」は牛のルーメン(胃袋)です。牛が草を分解できるのは胃の中に微生物がいるからですが、微生物にとってルーメンは温かく資源豊富な天国です。でも牛が死んでしまったら終わりますので、このシステムは持続可能ではない石油文明に敷衍できます。
・フラスコに水を入れて放置すると、微生物の食物連鎖が成立し、貧しいのですが、持続可能な生態系が出現します。これは「共貧のシステム」として農村的世界に敷衍できます。
・「緊張のシステム」は惑星間航行宇宙船に例えることができますが、そこで人が生きていくためには高度な管理が必要で、何か事故が起きるとシステム全体が破綻します。それは高度管理型の都市的世界に敷衍できます。
・持続可能な社会とは「共貧のシステム」と「緊張のシステム」のどちらで運営される社会でしょうか。二者択一ではなく、二つの世界を行き来できる精神的習慣が必要だというのが近藤の意見です。それは、都市的世界と農村的世界が領域の中にうまく配置されて相互作用できる社会を想起させます。
17 ・問題解決のためにはステークホルダーと解決を共有する必要がありますが、ステークホルダーには階層性があります。それをここでは市民レベル、地方政府レベル、国家・世界レベルとしてみました。
・市民レベルでは世界観はローカルで、地域固有の条件を重視します。国家・世界レベルになると、世界観はグローバルで普遍的な価値を重視するといえます。
・ここでローカルを上、グローバルを下に書きましたが、普遍的(どこでも成り立つ)ということは物事のベースになければならず、その上にある個別性を理解しなければ問題は解決できないという意味です。
・問題は、それが地球環境問題であろうと、問題は地域における人と自然の関係性を問題として現れるからです。
(ここの考え方は内山節の哲学に影響を受けていると思います)
18 ・最近の科学は、本質的な価値のズレがあるとスライドNo.6で述べました。それは、同じ課題を異なる分野から眺めると、相当違った姿に見えるのではないかと思えるからです。
・その二つの分野が理工系と人社系です。二つの立場の世界観、社会観、自然観は相当異なっているように見えます。
・印象に残っている言葉が「脳内環境問題」です。関礼子先生(立教大学)の編集した教科書「環境の社会学」からの引用です。
・理工系は未来を重視するが、現在が疎かになる。人社系は現在を重視し、現在の問題を解決した上で未来を展望する、というのは近藤の仮説です。
・この二つの考え方を包摂することはできるでしょうか。
19 ・人社系の世界観をダイアグラムにして見ました。なかなかうまく書けないのでイメージがうまく伝わるか心配です。
・世界は相互作用するたくさんのロ-カルから構成されています。相互作用は環境社会学の鬼頭先生はリンクと呼んでいます。
・相互作用はローカルとロ-カルだけではありません。個人やローカルが直接グローバルに影響を及ぼすようになりました。
・スウェーデンのグレタさん、あるいはパリ協定やSDGsにおけるボトムアップの達成方法は様々なつながりがグローバル社会の中で機能し始めていることを現しています。
・だから、ローカルを理解することが大切で、外部の世界とのリンクの構造を知ることがグローバルイシューの理解、解決に繋がると考えています。
20 ・しかし、ローカルな研究は、事例研究でしょ、と言われてしまうことが多いのです(理工系では)。理工系の意識世界より遙かに広い意識世界を持ち、世界の複雑な事情を俯瞰すると、ローカルこそ重要であることがわかります。グローバルが目指す普遍的な価値は、どこでも成り立つということに過ぎず、工業製品を作るといった作業では力を発揮しましたが(例えば、自動車は世界のどこで作っても基本的な機能は同じ)、環境問題を解決することはできません。環境問題はそれが地球環境問題であっても、問題としては地域における人と自然の関係性に関わる問題として発現しているからです。
・そこで、多数のローカルな研究を実施し、その成果の比較研究やメタアナリシスすることによって、より上位の課題にアプローチすることができます。
・これは人文社会系の学術では普通の考え方だと思いますが、学術の世界にもまだ分断が存在しています。
21 ・SDGsを科学の側面から支えるプログラムにFuture Earth(FE)があります。Rio+20では、1992年以降、地球環境問題には先進国による多額の研究への投資があったが、地球環境は良くなっていないではないか。新しい考え方で取り組まなければならない、という考え方からでてきたのが超学際(transdisciplinarity)です。
・これはMax-Neef(2005)のダイヤグラムを色づけしたものですが、横軸に学際軸があります。縦軸が文理融合軸で、頂点には価値、倫理、哲学があります。これを見たときは感動しました。
・これまで科学者は対象との間で価値とか哲学といったものを遮断し、第三者的な立場で扱うという態度が当たり前だと考えていました。よく考えると上から目線ですね。
・FEの時代では、ステークホルダーとの間で、価値や哲学を共有しなければなりません。それがスライドNo.2なのではないかと思っています。
22 ・一方、20世紀型の学術の位置づけがこれだと思います。とても勉強になるのですが、科学者の世界、高度経済成長期の考え方ではないかと思います。
・この中にはグリーンインフラストラクチャー、EcoDRRといった環境技術は含まれないように思う。
・定常社会、縮退社会では対応できず、やはり永遠の市場拡大を仮定する資本主義のベースがあるようだ。
23 ・超学際はヨーロッパで発祥した考え方だと思いますが、Future Earthの登場で重要な概念となりました。しかし、その解釈は地域によって少し異なるようです。
・ざっくりいってアメリカ型とヨーロッパ型があるように思います。
・近藤はB型で行きたいのですが、科学も資本主義の精神に影響されているとすると、B型に進むには大きな抵抗があると予想されます。だから、スライドNo.7で述べたように科学のあり方自体を変えていかなければならないと考えています。
24 ・これは環境社会学の教科書か、あるいは内山節の著作にかいてあったことかなと思っているのですが、出典がわからなくなってしまいました。大熊孝かも知れません。
・問題に対峙したときの二つの態度を現していますが、「問題の共有」が科学的合理性(有用基準)による解決(解決したつもり)、「問題の解決の共有」が明確なステークホルダーとの間で共感・理念・科学的合理性の基準を満たした状況なのではないかと思います。
25 ・例えば、地球温暖化問題を考えます。地球温暖化は深刻な危機をもたらします。だから温暖化を止めなければならない。
・極めてわかりやすく、だれも否定はできません。
・この場合の具体的なアクションは、例えば、「地球温暖化」というテーマを設定し、個々のグループがそれぞれの分野の研究を実行し、論文として出版して、会議を開催するという状況が相当します。
・論文の序論には問題の記述があるのですが、中身は物理かも知れません。政策に関わらないとしたら、Pielkeの②科学の仲介者(sciene arbiter)に過ぎません。
26 ・具体的な危機から考えたらどうでしょうか。
・地球温暖化が引き起こす“問題”は実際には様々な要因が積分されて生じます。このような見方では地球温暖化の重要性は相対化されます。
・今、水害が起きていますが(2020年梅雨)、水害が起きるのは温暖化が原因かも知れない豪雨かも知れませんが、川のそばに人が集住しなければならないという社会的素因があります。
・太平洋の島嶼国は水没の危機以前に、社会経済的な課題を抱えています。これが「脳内環境問題」の事例にもなっています。
27 ・科学のヨーロッパにおける発祥はデカルト、ニュートンに遡ると言われています。では、ニュートンは科学者だったのでしょうか。当時は科学者ということばはありませんでした。神は合理的な世界を創ったに違いないという信念がニュートン力学を生み出しました。
・その後、産業革命が進行する中で科学者が登場しましたが、当時は科学者の好奇心を貴族がパトロンとして支援するというものでした。
・さらにその後、科学と技術は強く結びつき、第二次世界大戦では科学が戦争の役に立つというブッシュ主義も登場しました(ヴァネバー・ブッシュでブッシュ元大統領ではありません)。現在では経済すなわち稼ぎに科学技術が使えることが認識され、重要なパトロンは国になりました。
・一方、学術の分野は細分化が進み、科学技術は進歩しても隣の研究室のことばもわからない状況になってきました。これらの科学技術をギボンズはモード1サイエンスと名付けました。
・一方、環境問題といった多様な要因が積分されて生じる問題はモード1では解くことができず、モード2サイエンスという考え方が生まれました。
・この概念と同様な考え方は呼称、意味合いを変えながらも、いくつか生まれていると思います。
28 ・上のチェーホフの話は「チェーホフの手帖」という短編集に収められている話しで、故中村雄二郎が「臨床の知」の冒頭で引用しているものです。科学者と現実の問題の関係を鋭く突いています。
・科学者の意識世界が小さくなっていることを指摘しているといえます。

・下の文章は反原発運動で有名な高木仁三郎の著作から引用したものです。これを読むと、私は身が縮む思いです。どんなに小さくても行為で語ることが大切だと思います。
29 ・未来はどんな社会であってほしいですか。これは名古屋で開催された生物多様性条約COP10の時に発出されたものです。私たちは多様な選択肢を持っているのです。それを選ぶのも私たち。
・グローバル・テクノピアと里山・里海ルネッサンスが中心となり、人が両者を行き来できる社会が良いのかと近藤は考えます。
・地球市民社会と地域自立型技術社会は少しずつグローバル・テクノピアと里山・里海ルネッサンスに融合されて、地域ごとに分散しているということになるのかなぁ、と思います。
・ひとつの社会に拘らず、多様な選択肢があることを知り、興味を持ったらアプローチしてみると良いと思います。東京で会社勤めするだけが人生ではないのだと思います。