この講義の最終日である7月19日までは頑張って追加していこうと思います。


課題に対するコメント 2021年度 

原子力災害を体験し、新型コロナ禍の最中にあるあなたが感じた科学技術と社会の関係について聞かせてください。
科学技術は私たちに便利な生活をもたらしました。でも、その利便性を享受するということの背景には何があるのか。ベネフィットとリスクの両側面を持つ科学技術を使うためには、私たちの社会や習慣はどうあるべきなのだろうか。ここに書いたコメントには近藤の価値観や哲学が多分に含まれます。単に受け入れるのではなく、近藤の考え方を参照しながら自分で考えるという習慣を身に付けてほしいと思います。キーワードは検索して調べてください。社会のあり方について考えている人は案外多く、政策にも反映されていることもあります。底流に気が付いて、それを奔流にするのも私たちの役割です。

 はじめに

一年以上もコロナ禍の中におり、大変な経験をした方もいると思いますが、改めて世の中の事を考える良い機会にもなりました。大学に勤める者として一番気になったのが科学技術と社会の関係でした。皆さんには関係ないことかも知れませんが、大学の教員(特に国立大学法人の中の研究を主体とする大学)では論文出版の数や論文評価の指標(CIやIF)といった数値指標によって個人が評価されますが、それが科学者と社会の関係を歪めていないだろうかという懸念がありました。原発事故(まだ収束していません)やパンデミックを経験した私たちは改めて科学技術と社会の関係について見直さなければならないと考え、こんな事前課題を出してしまいました。“わがこと化”して考えるということの練習と捉えてください。

 科学技術の利便性を誰が享受するか-文明社会の野蛮人仮説

課題を読んでいて、科学技術のあり方について考えるきっかけになってくれたかなと感じました。科学技術は誰のどんな努力によって社会に実装されているのか、どんなコストがかかっているのか、ベネフィットだけでなくリスクもあること、こんなことを忘れた人々を小林信一はオルテガの文明論を敷衍して文明社会の野蛮人と呼びました。.文明社会の野蛮人が増えると、その文明は衰退基調にあるそうです。では現在の文明社会はどうだろうか。

 ベネフィットとリスクの分断

事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所は電気を首都圏に送っていました。首都圏では便益(電気)を得て、リスクは遠方に置き去りにしていました。受益と受苦が離れていることを環境社会学では受益圏・受苦圏問題といいます。受益圏と受苦圏が重なっている環境問題は解決に至ることもあるのですが、両者が分断していると解決が難しくなります。どうすれば良いのでしょうか。

 貨幣の機能

首都圏では電気は貨幣で購入します。貨幣経済の仕組みでは、価値を貨幣で購入することにより、価値の作り手との関係性は分断されます。ちょっと待って! 価値を分断させないやり方はあるのでしょうか。最近は作り手の顔が見える商品の流通、あるいは地域経済循環圏の創成といった流れが強まっているように感じます。地域だったら自給経済、交換経済も可能になるかも知れません。そうなると強いコミュニティーの形成、持続可能な社会も可能になってくるかも知れませんね。こういう底流について調べて見ませんか。

 ローカルとグローバル

この二つの関係について気が付いてくれた方がいました(うれしい!)。20世紀を生きてきた人は何となくグローバルがローカル、また普遍性が個別性の上位にあると考えがちです。でも私たちの暮らしを精神面で豊かにしてくれるのは世界どこにいっても同じ景色があり、同じ食品を食べることができることではなく、地域ごとの個性です。いつでもどこでも普遍的に成り立つということは、ものごとのベースにあるものであり、その上位にある個別性を理解することによって地域ごとに問題を理解し、解決することができるようになります。地球環境問題といっても、問題としては、地域における人と自然の関係性の問題として顕れます。私たちは何を尊重したら良いのか。それは地域によって異なる人の個性や自然に適応した暮らしだと思います。

 農村的生活と都市的生活

スター・ウォーズを知っていますか。私は最初のトリロジーが一番好きです。ヨーダは湿地の惑星、オビワンケノービは沙漠の惑星でで隠遁生活をします。レイは朽ち果てた兵器を住処としてスカベンジャーをやっていますが、暮らしの中には科学技術があり、いざとなったら惑星間航行宇宙船を直して宇宙に飛び出すこともできます。科学技術のベネフィットを享受しながら、自分でも使いこなし、都市敵生活と農村的生活を行き来することができるような社会になったら良いなと思います。
スタインベックの怒りの葡萄は読みましたか。カリフォルニアに向けて自動車で旅する農民は、自分たちで自動車を修理することができます。エンジンを分解してシリンダーのリングを交換する場面も出てきます。これは人と技術の良い関係の一例ではないかな、と思います。今の機器は複雑すぎて自分で修理ができなくなってしまいました。我々はどこまで利便性を追求するのだろうか。
両者を行き来できると断言してくれた方がいました。まずは両方の暮らしを経験することが大切ですね。

 農的生活

都市に依存する暮らしではなく、農的生活を評価する記述を頂きました。若者もそんな思いを持っているのではないかと想像していましたが、ちょっとうれしい。幸せとは何だろうか。都会でサラリーマンをやることが唯一の選択だろうか。実は様々な選択肢があります。低収入でも、低コスト、低負荷で暮らせる社会が確実にあります。統計的に若者の地方への進出、Uターン、Jターンは確実に増えています。例えば、「ふるさと回帰支援センター」のホームページを紹介します。学問としては地理学や農村計画学で研究もされています。大切なことは“意識世界”を拡充することで、そうすると様々な選択肢が見えてくると思います。田舎に対するノスタルジアではなく、国土を如何に形成し、幸せな社会を創り上げるかという人としての課題に直結します。

 日本の行く末

このことについて若者が考えるきっかけになったということはうれしいことです。その際、現在の底流について調べることをお勧めします。「国土形成計画」、「第5次環境基本計画」、「地方創生」といったキーワードで検索してみてください。また、世界ではSDGsがなぜ登場したのか、国連「世界家族農業の10年」とは何か、といったことも調べて見ると良いでしょう。

 問題の背景

原子力災害とパンデミックは違うものではないか、という意見もありました。両者の根本にあるものの共通性はないか、ということを考えて見ると良いかも知れません。グローバル資本主義の性質、貨幣経済の仕組み、進歩を是とする習慣、などなど。ちょっと違った角度から問題を眺め、深掘りすると新たな観点が見つかるかも知れません。

 自然と人間、どっちがどっちを養っているのか

自然が人間を養っているという見方も、自然と人間は共存しているという見方、そして人間が自然を養っているという見方も可能かも知れません。人間は自然を支配できるという考え方の背景には、ひょっとしたら後氷期の1万年で成立したヨーロッパの貧弱な植生があるのかも知れません(表記にヨーロッパは氷床で覆われ、その周囲はツンドラだった)。日本やアジアの植生は実に濃密でしぶとい(現在畑の草取りに翻弄されています)。里山は人と自然の相互作用で成立した新たな平衡状態と言えます。落葉広葉樹は極めて豊かな森で、縄文の豊かな暮らしを支えました(昭和の頃までの山村も豊かだった)。一緒に仲良く地球上で暮らしたいものです。

 科学技術のメリットとデメリット

普段の生活ではメリットを感じることの方が多いでしょう。デメリットは突然やってきたり、局地的に発生します。私たちの歴史の中で何があったかを考えると視野が広がるかも知れません。日本発の公害であった足尾鉱毒事件、四大公害病(水俣病、イタイイタイ病、新潟水俣病、:四日市ぜんそく)など。それぞれの原因は私たちの暮らしを豊かにすることにも貢献しています。その関係性を再検討することにより、科学技術と人の関係性を良好にすることができるかも知れません。

 非接触体温計に感じる科学技術のメリット

こんなことを感じてくれた方がいました。実は長波放射を使う非接触の温度計測はこなれた技術です。1960年には人工衛星に搭載されて地球の表面温度が観測されました。私も昔から使っていますが、確かに価格が下がりました。30年近く前に購入した放射温度計は数百万円しました。今は数万円で買えます。技術の進歩だけでなく、低価格化のメリットも大きいですね。

 科学者、政治家、行政の協力

とても良い指摘でした。私はここに市民を追加したいと思います。科学と政治の関係についてはPielke(2007)のHonest Brokerが一つのあり方だと思っています。スライドの中にありますので、確認してください。ステークホルダー(関与者)と協働する科学者には③論点主義者と④誠実な仲介者があります。③は環境保全とか原発問題といった特定の課題に対する政策をステークホルダーと共有して提案します。④は研究、すなわち現実の実態把握の結果に基づき複数の政策を提言します。コロナ禍においても科学者である専門家は複数の提言を根拠に基づいて発出し、政治家は自らの責任において政策を決定し(例えば、経済優先、健康優先)、行政がそれを実行し、市民が指示、協力するといった状況が望ましいと考えていました。しかし、専門家が提言しても、政治が機能しなければ④は成立しないこともコロナ禍でよくわかりました。政治には理由を理念に基づいてはっきり語ってほしいものです。Evidence-based Policy Making(EBPM)が政策の柱になっているのですけれどね。(少し修正しました)

 科学に対する過信

過信が自らの行動を自分で決めることができないという状況につながっているかも知れませんね。というか自分の行動を誰かに決めてもらいたいということ。日本は良い国になった。日本人の安全・安心はすべて外部に負託している。警察、消防、医療、福祉、教育、自衛隊、など。だから日本人はクレームしかやることがなくなっちゃった、と鷲田清一が言っていました(「しんがりの思想」、角川新書)。科学技術と暮らしの関係を認識し、自分の行動は自分で決められるようになりたいものです。
SDGsにぶら下がらないで、自分で考える能動的な態度を持つという考え方は良いですね。

 世界認識のステレオタイプ

農的世界が都市的世界の被害者になっている、農的世界は遅れた社会、といった認識は再確認してみましょう。「ムラ」もそうですね。ステレオタイプにとらわれていたが、知ってみたら素晴らしい世界だった、ということが必ずありますよ。これは保証します!世界は分断やコンフリクトに満ちあふれていますが、実は強調や協働の成果も多い。世界をより深く知ることも、世界を良くする一歩だと思います。

 つながりの途絶

実は私もこのことを影響を深刻に捉えています。人とのつながり、ふれあいが強制的に遮断されている状況の影響が数年後に社会に現れるのではないか、心配です。皆さんには読書をお勧めします。実は私は“ひとり”が好きで、“隠者”になりたいと思っています。でも、大和言葉の“ひとり”とは集団の外側にいて、集団を俯瞰することができる“ひとり”だそうです。山折哲雄氏が書いていました。また、鴨長明「方丈記」兼好法師「徒然草」が好きですが、隠者といえども人との接触を断つわけではなく、様々な交流があったようですよ。“ひとり”というのは実は英語のIndividualに相当するそうです。こんなことを考えていると、コロナ後につながりを取り戻すこともできそうです。

 エンパシー:共感

この言葉が伝わったことに大変うれしく感じます。元々は19世紀にドイツ語から派生した言葉だそうです(菅豊、「『新しい野の学問』の時代へ」、岩波書店)。私はブレイディーみかこ氏と福岡伸一氏の対談記事で知りました。シンパシーではなかったのですね。事故や災害には不安を伴いますが、その不安を和らげるのは科学的知識というわけでもなく、エンパシーに基づく信頼が醸成されることの方が大きいのかも知れません。これは東畑開人著「野の医者は笑う」(誠信書房)で学びました。

 恐怖の原因

放射能に関する知識がなかったということが恐怖の一因になったという指摘はその通りですね。コロナも然り。科学の「力」に憧れるだけではなく、誘惑に負けない理性を学ぶことが大切だという指摘は重要だと思います。とはいえ何を学ぶかということは難しい課題なのですが、社会や環境を構成する様々な要素、事象の間の関係性を重視し、学ぶということが大切ではないかなと思います。

 原発との心の距離

そうですね。実距離は近くても、心の距離は遠かったということはありますね。それは関係性が構築されていなかったということでしょうか。関係性は雇用といったような直接な関係だけではなく、可視化されていなかった抽象的な関係性もあるのではないかと思います。リスクを意識しなかったことで関係性を意識できなかったのかも知れません。一方、近代文明の利器としての原発がもたらした日本の繁栄からくる間接的な関係性もあったかも知れません。様々な関係性があります。様々な関係性を意識することができる広い視野を身に付けてほしいと思います。

 原発のメリットと負の側面

おそらくメリットがあると考える社会と、負の側面が大きいと考える社会の二つがあるのではないかと考えます。それは世界あるいは世間をどのような範囲で捉えるかということと関係しているように思います。価値を貨幣に変換して取引し、様々なメリットを享受できる都市的社会ですが、貨幣の向こうにあった価値を意識すると世間の範囲が広がるかも知れません。一つの答えはありませんが、総合的、俯瞰的な視点を意識し、考え続けてほしいと思います。

 原発のリスクのコスト

確かにリスクを発現させない原発の運用ができれば人類にとってメリットは大きいと思います。そこには一つの理想の社会があるように見えます。そんな社会はどんな社会だろうか。人々が原子力発電の仕組み、リスクを熟知し、運用を自分たちで行うことができる(人任せにしない)社会はあり得るようにも思えます。近藤はそこからは惑星間航行する移民船、火の鳥@手塚治虫にあるような核戦争後の冬の時代の地下都市のような社会のイメージが浮かびます。人々が少し豊かに、誇りを持って、楽しく暮らせる社会はちょっと違うのではないかと思いますが、これは63年生きてきた近藤の私見です。いろいろな経験を積んでください。

 都市的世界と農村的世界のリスクとベネフィット

原発は前者がベネフィットを得て、後者がリスクを負った。コロナ禍では逆。そうですね。コロナ禍における農村の強さに関わる記事は農文協の「現代農業」や「季刊地域」でたくさん目にします(定期購読しています)。でもどちらが良いということでもありません。近藤は人々が二つの世界を自由に行き来できる精神的習慣を持つことができるということが大切なのではないかと考えています。科学技術を二つの世界の共存に使うことができるのではないか。テレワークもそうですが、少しずつ見えてきたような気もします。

 ベネフィットとは何か

確かに経済的なベネフィットが優先されがちですね。でも貨幣の獲得、増殖が重視されるようになったのは人類の歴史からするとべらぼうに古いわけではないようです。産業革命を背景にキリスト教が市場システムを肯定した頃から加速し、新自由主義の台頭によりピークに達した。現在は見直しが始まっているような気もします(バイデンさんも頑張っているようです)。豊かさとは何か、幸せとは何か、人間の習慣というのは何かをきっかけとして変わることがあると思います。それが今ではないか。SDGs、パリ協定、...動きはあります。

 科学技術の適度な活用

よい表現だと思います。読んでピーンと来ました。また科学技術に依存しているのでは、という指摘も頂きました。そこで考えて見たい。私たちが普段使っている科学技術は“必要”なのだろうか。実は“作られた需要”なのではないか。作られた需要を満たすために消費者は貨幣を稼ぐことにあくせくし、企業は貨幣を増殖させるために新たな需要を作り出そうとする。この繰り返しになっていないか、考えて見る必要がありそうです。技術というものは波及効果も含めて常に“何のために”ということを考え続けなければならないと思います。例えば、車の自動運転が目的地に着く間に映画を見たり、SNSができる、なんてことを中心に語られているとしたら、それは私たちの社会にとって必要なことなのだろうかと問い直してみる必要がありそうです。もっと重要な価値があるように思いますが、それを実現するにはどんなシステムであればよいか。考えて見てください。ビジネスでイニシアティブをとらなければ敗残してしまう、不幸になる、という脅迫観念があるとしたら考え直してみる必要がありそうです。技術者の夢は尊重すべきですが、それは決して一般大衆の望むところではないのかも知れません。最近、哲学の世界では伝統回帰が良く語られるようになってきたと思います(例えば、内山節の哲学)。ただし、それは単に昔に帰ることではなく、スパイラル(螺旋)であり、伝統回帰しながらも昔とは違う新しい社会に移行することです。

 自分たちで管理できる技術

管理できない科学技術は使用すべきではないという意見を頂きましたが、私も同意します。ただし、管理とは、科学技術の原理、リスク、ベネフィットを皆が知り、衆人の監視のもとで運営するということです。これができてこそ近代文明人です。できないと“文明社会の野蛮人”であり、文明は衰退します。キーワードで検索すると「『文明社会の野蛮人』仮説の検証」(小林信一)という論文がヒットすると思います。読んでみませんか。

 現在の社会は複雑化しすぎ

確かにそうですよね。世の中は複雑だ。でもね、複雑なものを複雑として捉える視点も重要であり、実はそんなに難しいことではないように思います。近藤の専門は地理学ですが、地理学は文系、理系の様々な分野を含み、世の中がどんな要素から構成されており、どんな関係性で結びついているかを理解しようとします。一般性、普遍性を探究するのではなく、むしろ地域ごと、時代ごと、人ごとの違いを拠り所にします。20世紀までの科学技術はノイズを排除し、理想的な条件の中で原理を明らかにし、その結果様々な文明の利器を生み出してきました。21世紀は複雑なものを複雑として見る科学の時代ではないかな。それは難しいことではなく、マインドなのだと思います。先日亡くなった立花隆氏もそんなマインドを持っていたのではないかな。

 情報の共有とデマの拡散

これは情報技術のプラスとマイナスの側面ですね。皆さんには情報の受け手として、常に“なぜか”と問う姿勢を身に付けてほしいと思います。その時に頭の中のデータベースが充実していると、自分の考え方を構築することに役立ちます。外部データベースとAIで良いじゃん、という人もいるかも知れませんが、AIで理解できるほど世の中は単純ではありません。頭の中で創り出す直感は脳ミソデータベースの中に蓄積された知識、経験に基づいており、AIより遥かに精緻な関係性を見つけることができると考えています。AIは創造はできないが、人間は創造することができます。人間の力を信じるということも大切だと思います。その上でAIを使いこなしましょう。

 都市的世界と農村的世界のステレオタイプ

都市的世界を農村的世界の上位に置いてしまうのは前時代のヨーロッパ思想なのかな、という気もします。世の中は神が作った理想的な社会に向かって発展する途上にあり、ヨーロッパ的なものが優れているのだという考え方。これもステレオタイプで、検討の余地がありますが、決して都市が進歩した世界で、農村が劣っているということはありません。まずは自分の目でみて確かめるという態度が必要だと思います。

 ローカルを100個も集めればグローバルになる

このことに同意いただける方が複数いることに感動しました。今、世界を席巻しているグローバル資本主義は世界を均質化する方向に向かっているように思います。しかし、人間というのは地域における存在でもあります。地域が集まって世界ができあがりますが、グローバルは容れ物であり、その中で相互作用する地域や人間の関係性を良好に保つことが地球環境問題に対応するということだと思います。

 都市と農村で共通する科学技術

その通りだと思います。暮らしの中の科学技術のあり方が異なるのですが、違いの一つは生態系サービスを使えるかどうか、ということではないだろか。広い庭と木陰、風の通る家屋と高断熱の閉じた家屋では夏の過ごし方は異なるでしょう。薪ストーブ、ペレットストーブによる暖房と電気による暖房ではエネルギー負荷も異なります。電気は自動運転が可能ですが、実はペレットストーブもコントロールに電気を使いますが、自動運転可能です。ヨーロッパ製の薪ストーブは日本のダルマストーブに比べて燃焼効率が高く、残差も極めて少量です。震災の直後、福島県飯舘村でペレットボイラーを見ましたが、その残差の少なさには驚きました。残差たまりを線量計で計測するとある部分だけが空間線量率が高くなりました。そこが、3月15日(主要な放射性物質の沈着が起こった日)の灰だったのだろうと思っています。

 小技術・中技術・大技術

コントロールできない科学技術については複数の方からご指摘いただきました。そこでタイトルの言葉を思い出しました。河川工学者で環境社会学者でもある大熊孝先生(新潟大学名誉教授)の著作にあったものです。大熊先生の対象は水害ですが、小技術は個人でできる技術、中技術はコミュニティーで対応する技術、大技術は管理・運営を人任せにしなければならない技術です。水害に対しては土盛りで建物の基礎を高くしたり、水屋(水塚)を作って避難場所を確保するといった技術です。中技術は水防団のようにコミュニティーで堤防を修復するといった、地域で対応できる技術です。大技術にはダムや遠隔操作の水門といった施設で、人と川は分断されてしまいます。大技術はもちろん素晴らしい科学技術の成果です。しかし、管理・運営を人任せにしなければならない技術は人や地域をどう変えてしまうのでしょうか。意思決定に住民は関与することはできないのでしょうか。平穏時にこそステークホルダーの間で話し合っておかなければならないことでしょう。わがこと化するということ。

 トランスサイエンス

諒解のためには共感(エンパシ-)・理念・合理性が必要という主張に賛同いただきありがとうございます。それでも科学の知見を活かすべきというのはその通りです。そのうえで現場における様々なステークホルダーの営みの人間的側面を重視してきたいと思います。原発事故当初、放射能と健康の関係を理解していただければ安心を得ることができるという考え方が決して皆に受け入れられたわけではないことを思い出します。人々は健康被害を心配していただけではなく、政府や東電の誠意を問題にしていたわけです。トリチウムを含む処理水の海への放出も、安全性を丁重に説明すればわかっていただけるはず、という姿勢が背後に見えます。まずは誠意に基づいて信頼を得るという所作が必要だったのですが、問題がこじれてしまっています。科学は問題の解決には必要だが、科学だけでは問題は解決できない。そういう領域のことをトランスサイエンスといいます。科学を現場に実装するための科学としてのレギュラトリーサイエンスも必要です(毒性学分野の用語ですが、さらに幅の広い意味で解釈されています)。

 リスクとベネフィット-バランスか大きさか

なるほど、重要な観点ですね。リスクがあるのなら大きさを考慮すべきという考えかたもありですね。考え始めると深みにはまってしまいそうです。そこで考える。リスクをとるということの背後には何があるだろうか。競争を是とする新自由主義的な精神はないかな。負けた人はどうなっちゃうのだろうか。いやいや、みんなが幸せになれる社会が良いのだという考え方もあり。でも、それはどんな社会だろうか。難しいですね。宮沢賢治を深読みする必要がありそうです。こんな本もあります。古沢広祐著「みんな幸せってどんな世界 共存学のすすめ」。考え続けましょう。

 過去の経験から学ぶこと

原子力災害には過去の経験があるのに、なぜ活かされなかったのかという疑問は当然でしょう。チェルノブイリ、スリーマイル、東海村臨界事故、人形峠の残土問題などが挙げられます。放射能に関する件は広島、長崎、第五福竜丸なども含まれます。コロナ禍も経験がなかったわけではありません。スペイン風邪をはじめとする新型インフルエンザは日本でも経験しています。歴史の中でペスト、天然痘、などたくさんあります。我々は経験に学ぶことはできないのでしょうか。ビスマルクは言いました。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。意味するところは深いのですが、経験は思わぬミスをするのかも知れません。SARSの影響は日本では少なかったので、悪しき経験になってしまったのかも知れません。歴史をじっくり読み解いてみる必要がありますが、災害は忘れた頃にやってくる(寺田寅彦)というように、人間は忘れてしまうのですね。経験をどう継承したら良いでしょうか。

 意識世界

この言葉は近藤の造語なのですが、記憶に残った方がたくさんいたようです。世の中、いろいろな意見が飛び交っていますが、なぜあの人がそのように考えるかという点は、その人の意識世界を想像すると大体わかるようになりました。その人がどのような関係性を持って暮らしているか、を想像すると大体理解できます。これは偏見にもつながる可能性があるので慎重に考えなければなりませんが、論点の整理にとても役立ちます。対話をすることができれば互いの意識世界のすりあわせができます。少なくとも立場を理解することができます。問題の解決は難しいかも知れませんが、意識世界を交わらせることができるような気もします。それが諒解への第一歩になると思います。

 共感の強要

朝日朝刊の神奈川大学の広告面で、中村隆文さん(千葉大出身だ!)が“共感できない人を責めると、分断はよりひどくなります”と述べていました。私もこのことは気になっていました。諒解のための共感・理念・合理性という考え方にはご賛同いただいた方が多かったと思いますが、共感を他人に強要してしまうとかえって分断を深めてしまうことになります。ではどうするか。この時に相手の意識世界を想像してみます。相手の主張ももっともだなぁ、感じることができるかも知れません。いろんな事情があるんだね、というのが私の口癖なのですが、いろんな事情を尊重することも大切だと思います。多様性を理解することにもつながります。とはいっても自分と相手あるいは集団の間で諒解できない場合もあるかも知れません。そんな時は“ひとり”になるのです。山折哲雄が述べていますが、大和言葉の“ひとり”とは、集団の外側にいて、集団を俯瞰することができる“ひとり”です。こういう視座・視点に自分を置くことができる“ひと”ですが、集団との関係性を絶っているわけではありません。誰かさんが言いましたが(菅首相、学術会議会員任命拒否に際して)、総合的・俯瞰的観点から事象を眺めてみるのです。こういう習慣を身に付けると対立を乗り越えることができるかも知れません。言うは易しで、難しいことではありますが、コロナ禍の中、“ひとり”のあり方を考えてみませんか。宗教学者の山折哲雄の著作、あるいは検索すると関連する文章を見つけることができると思います。

 豊かさとは何か

このことについて考えたくれた方がいました。この問いには答えがないか、あるいは人の数だけ答えがあると言っても良いかも知れません。歳を重ねるごとに、経験を積み重ねるごとに考え方も変わっていくでしょう。少なくとも貨幣ではないことは確かだと思います。貨幣は価値を変換したもので、本当に大切なのは変換された価値だと思います。その価値にはいろいろなモノ、コトが含まれると思います。人との関係性、絆、信頼といったものが“ひと”の“こころ”に豊かさをもたらすのではないか。心のケアに必要なのは理論ではなく、対話によって醸成される信頼なのではないかなと思うようになりました(例えば、東畑開人「野の医者は笑う」、森川すいめい「感じるオープンダイアログ」を読んで)。もちろん貨幣も大切です。欧米では合理的利他主義というのがあるそうです(「『利他』とは何か」、伊藤ほか編、集英社新書)。欧米では寄付の文化がありますが、まずは貨幣を稼いで、それを寄付するという行為があります。それも自分の心を豊かにしてくれるでしょう。

 オンライン授業

これについては肯定的な見方が多いようです。私も便利に使っており、否定はできません。でも学生の画面がオフになったまま講義をしていると、なんだかラジオパーソナリティーをやっているような気になります。終わりを宣言しても誰も出て行かない、なんてこともありますよ。できれば顔を見ながら、双方向で対話、議論したいものです。体系のある学問の分野、すなわち“学”が付いている分野はオンラインでもできると思います。しかし、環境の様に、答えがない、あるいはひとつではない課題では双方向で意見を交換することが大切です。アクティブラーニングといって、来年から始まる中等教育のカリキュラムでも重視されています。自分の考えを持ち、人と対話、議論できる人材が求められているからです。といいつつ、私の担当がオンデマンドであることは矛盾していますが、WEBを活用して意見の交換をしたいと思います。意見、異見はどしどしお寄せください。

 農村的世界の環境

課題の回答を読んでいると結構地方出身者が多いことがわかりました。地域の自然を再評価している方もいました。でも暮らしの中で触れているものは自然と言うより環境と言った方がよいと思います。環境とは人(および生態系)と相互作用する周りという意味です。フランス語のMilieuに相当します。日本語では本来は風土と言った方が近いと思います。よってあなたが見てきた“周り”とは人と自然が相互作用し、形成された平衡状態が持続してきたものと捉えることができます。人と自然の間には様々な関係性があります。見えなくてもあるんだよ、というわけです(金子みすずですね)。平衡といっても動的平衡であり、作用が変わると平衡状態も変わります。環境問題とは人の作用によって人と自然の関係性に生じた問題ということが言えると思います。改めて故郷の環境を眺めると見えていなかった関係性を発見することができるでしょうか。ちょっと抽象的になってしまいましたが、関係性に気付くことによって、故郷がますます好きになったり、都会の環境を見直すきっかけになるかも知れません。

 いろいろな地域における体験の共有

提出して頂いた文章を読んでいると、みなさんはいろいろな地域、国、事象の体験をしていることがわかります。それぞれの貴重な体験は考え方の形成に大きな影響を与えていると思います。私の海外調査はアジア、アフリカ、中近東が中心で、実は先進国にはあまり行ったことがありません。出張を終えて帰国すると日本は何て良い国なんだろうといつも感じます。でも途上国の人々が不幸というわけではありません。私の初めての海外調査はタンザニアでしたが、村の暮らしを見て、何て平和で豊かなんだろうと感じました。もちろ問題はたくさんあるのですが(だから調査に行ったわけです)、人々は安穏と暮らしていました。そこに少しのセーフティーネットがあれば安全で安心して暮らせる社会になるなと思ったものです。内戦中のスリランカやイエメンでは検問をいつも通り抜けて現場に行きましたが、日本は何て平和なのだろうと感じます。経験の共有はなかなか難しいのですが、本や雑誌を読む、テレビを見ることでいろいろなことがわかります。最近NHKプラスに登録しましたので、週末に番組を纏めて見ることが得きるようになりました。NHKは問題もいろいろあるようですが、現場は良い番組を作ってますね。日本ほど書籍その他の情報が揃っている国はないということは海外に行くとよくわかります。この恵まれた状況を是非とも皆さんは最大限に活用してほしいと思います。

 科学技術を使いこなすとは

科学技術は道具であり、その便益を享受すべきである。リスクも人間の力によって避けることができる。こんな考え方も散見できました。その通りで、人間の叡智によりリスクを避けて、便益を最大限に享受することも不可能ではないでしょう。私もそうなればよいな、と思います。しかし、残念ながら人類はその段階には達していないようです。先に書いた文明社会の野蛮人から脱却するどころか、野蛮人化が進んでいるようにも見えます。SDGsの目標は“誰一人取り残さない”です。このことの意味は犠牲によって成り立つ社会の否定です。数字で表される平均的な人の幸せではなく、名前があり、顔が見える“ひと”が幸せになることが目標です。そのために科学技術を使いこなすことができる人間とはどんな人間で、そんな人間が運営する社会はどんな社会なのか、想像してください。そんな社会を創造しましょう。理想的すぎると言われそうですが、理想を高く掲げてとにかくがんばる、というのは実はヨーロッパ的なやり方です。パリ協定がそうですね。良いところはどんどん取り入れたいと思います。

 科学技術の価値

科学技術は道具であり、その価値は人間の使い方によって変わる。若者がこのような考え方を持っていることはシニアとしては驚きであると同時に、発見でした。私は鉄腕アトムを見て育った世代。科学技術に夢を託し、科学技術の進歩は人間にゆとりをもたらし、創造的な仕事に注力できる...はずでした。でも、そうなっているとはいえません。高度経済成長の慣性はシニア世代に残っているのですが、低成長時代以降に生まれた若者はすでに新しい未来を見つめているのではないか。楽しみにしながら与生(科学技術によって与えられた時間)を過ごすことにしよう。

 個の傾向の強まり

オンラインが普及することによって、個の傾向が強くなるということに対する懸念を皆さん持っているようです。個は孤ではなく、英語ではIndividualです。日本語(大和言葉)では“ひとり”。先にも書きましたが、孤ではなく個(ひとり)であることを意識して、世の中を俯瞰しながら、世の中との関係性も構築するようにしてほしいなと思います。それができるのが大学生。わからなくなったら相談してください。個の傾向が強まるということは世の中の有様を俯瞰する視座、視点がたくさんできるということであってほしい。それがSDGsのめざす社会の変革につながります。

 再生可能エネルギーに対する期待

太陽光、風力、小水力、バイオマスといった再生可能エネルギーに対する期待は高まっているようです。でも、総合的俯瞰的な観点からの議論が十分成熟していないと思います。日本はまだまだ高度経済成長時代の慣性から抜け出せていないことを実感します。科学技術が進歩するから大丈夫...でしょうか。かつては日本のお家芸だった太陽光発電パネルは中国に席巻されています。風力発電用の発電機メーカーは国内にはなくなりました。欧米が自動車のEV化を進めているのは、日本がイニシアティブを持つハイブリッド技術の先を見据えているからともいえます。国内は複数の電力会社に分割され、周波数も東西で異なり、電力会社間の電気の融通も難しい(見直しされているところですが)状況です。島国であり、隣国から買電することもかなわない。電気の需給調整は火力発電でやらざるを得ないのだが、石炭火力も新設は難しくなった。技術の開発がプランAだとしたら、プランBとしては低負荷社会の構築を考えなければならない。総合的・俯瞰的な観点から再生可能エネルギーに取り組まなければならないのですが、総合的・俯瞰的な観点の意味が政治に理解されていないことが残念です。とはいえ、様々な底流が存在します。日本人はまだまだ捨てたものではありません。官僚だって頑張っている方がたくさんいます。底流に気が付き、それを奔流にしていくのが皆さん、そして私の役割です。

 ネット世界とリアル世界の融合

これもありだなぁ。様々なリアル世界の体験はお勧めなのですが、そんなにどこでも行けるわけではない。リアル世界をネット世界で補完することができれば私たちの意識世界を広げることができる。ただし、ネット世界は劇場型世界でもある。オフと同時に意識から消えて亡くなる。そうではなくネット世界も視点・視座が変わればリアル世界であることを自覚し、両者を繋ぐことができるのではないか。若者に期待したいのですが、コロナ禍が収束したら若者にはいろいろな世界を見に行ってほしいと思います。人間はある程度の経験があると、書籍やテレビ、ネットからも他人の体験をわがこと化して受け入れることができるようになるのではないか。近藤も若い頃は世界の田舎の田舎にずいぶん行きましたので、いろいろな世界をわがこと化して捉えることができるようになったのではないかなと考えています。

 依存の罠

その通りですね。我々の暮らしは科学技術に依存しきっている側面が確かにある。ハザードによって機能停止したら、にっちもさっちもいかなくなる。なんてことが内容にしなければなりません。思想を持つことも大切かも知れません。昔、アラブの国に行ったとき極乾燥地域なのに水をバンバン使って樹木に水をやっている。沙漠の中には森林公園まで作っている。持続可能じゃないんじゃないの、といったら、そんなことはわかっている。だから、いつでも沙漠の生活に戻れるように時々沙漠でキャンプをするんだ、と。常に先を予見しながら暮らし、先の暮らしを諒解するということもありかなと思いました。私たちは依存がわかったのならば、依存先を複数持つようにする、あるいは少しずつ暮らしを変える、ということも必要かなと思います。例えば、水道。首都圏の水は利根川、荒川水系に依存しており、“遠くの水”を使っているわけです。“近くの水”、例えば地下水、も使えるようにしておくと安心できるのではないか。どちらもベネフィットとリスクがありますが、それを意識しながら両方を保全しながら使うこともできるのではないか。答えはないわけではない。

 答えが見つからない

エネルギー問題にしても、コロナにしても答えがない、ひとつではない、難しい問題がたくさんありますね。そういう時こそ理念を明確にしたいと思います。数字で表される平均的な人として国民を扱うのか、名前があり、顔が見える人を見つめるのか。政策決定者の立場により、どちらもありだと思います。その理念さえはっきり示して頂ければ、しょうがねぇなぁ、と思いながらも諒解することができるのではないか。政治家であるためには理念が必要なのだが、現在の為政者はそこを主張しているだろうか。

 AIのリスク

おっしゃるとおりだと思います。私はAIについては詳しくないのですが、AIは人間の判断を助ける道具で、AIが判断することはあり得ないと思います。AIから提案されることはあると思いますが、それを採用するかどうか決めるのは人間ですからね。AIの使用方法については注視していきたいと思います。それにしても、AIが何でも考えてくれる社会はつまらないものじゃないのかなぁという気がします。AIは“感じる”ことはできるのだろうか。外形的にはできそうだが、心の深層で感じ入るなんてことはできそうに思えない。私は人間の“感じる”力が問題の理解や解決のためには必要なのではないか、と考えているが、それがエンパシーということかも知れない。

 科学の成果の受け止められ方

私も参加した2011年6月に行われた福一原発80km圏の土壌調査。これによって放射性物質の沈着量を推定することが可能となり、その後の施策に活かされた。ありのままを地図化することによりマイナスのイメージを持たれた人も確かにいた。科学的成果を明らかにすれば人は安心するのだという科学者の一方的な思い込み。思い出すのはあるシンポジウム。いわき漁協では国の基準100Bq/kgの半分である50Bq/kgを基準と定め出荷を試みたという話に、ある科学者が100Bq/kgでいいんだ、安全なんだと主張。いや違うやろ。科学的合理性だけでは人は諒解できないのだ。背後にある人間的側面を配慮せねばならんのだ。それはエンパシー、理念ともいえ、信頼が生まれなければ先にすすめないのだ。科学だけでは問題は解決できない。山木屋地区では避難指示解除が決まった後、もうセシウムなんていいよ、と。リスクよりも大切なものはどうしてもある。科学技術と社会の関係は20世紀までは科学技術が先導していたように思われる。でも、これからはどうしたらよいか。人間的側面を配慮した問題解決の場で、科学者、技術者はひとりのプレーヤーとして、それぞれの役割を果たす時代なのえはないかなぁ。

 まずは理解から

私もつい実践が必要だ、なんて言ってしまいますが、まずは理解。その通りだと思います。いきなりハードルを上げる必要はありません。理解してから少しずつ行動に移す、あるいは理解してるということ自体が大切なのだと思います。理解もそんな簡単なことではありませんので、理解しようと試みる、という態度でも良いと思います。理解が進むと考え方が変わってくることもあります。それでも良いと思います。ブレてもいいんです。認識が深まったということですから。私は難民や移民の問題では、人は故郷で暮らすのが一番幸せだ。だから故郷の安全・安心を確保するための国際貢献をすべきだなんて考えていました。大坂の民博で移民コーナーのビデオを見たときに、ほとんどの方が最後は故郷で暮らしたいと語っていたことが印象に残っていたということもあります。最近は入管や技能実習生の問題を知るにつれ、包摂的な心情に変わってきました。それは報道により名前があり、顔が見える“ひと”の問題であることを実感したからだと思います。“ひと”は大和言葉であり、規範的な人、数字で表される平均的な“人”ではなく、感情を持ち、“もののあはれ”を感じる“ひと”なのです。そんな“ひと”を理解できるようになりたいものです。

 ムーンショット計画

私も内閣府のムーンショット計画(検索してみてください)を見たときには違和感を覚えました。でも、計画を推進する方々の意識世界を想像すると、さもありなん、という気がします。これを機に、政策を調べて見てはいかがですか。統合イノベーション戦略なんてものもありますよ。私たちの未来を決めるのは誰なのだろうか。もちろん、真摯に日本の未来を見つめた政策もあります。時間があったら是非とも調べて見てください。

 多様性の認識や理解

日本は小さな国ですが、自然や社会の多様性が大きいことも特徴です。気が付いてくれてありがとう。もちろん世界の中の多様性はもっと大きい。それはトップレベルで尊重すべきものだと思います。世界のグローバル化が進むにつれて世界が均質になりつつあるように感じます。でも本質的な部分は変わらないのではないか。世界が均質になったらおもしろくなくなってしまいます。また、絶対に同化されない部分もあります。やはり世界は地域が集まって構成されているものなのだ。地域ごとの生き様を尊重することのできる地球社会にしたいものだ。でもなかなか一致団結できないこともある。そこも酌み取りながら合意をめざすことも人間にはできるはずだ。

 バーチャルウォーター

これは自分と世界の関係性を考えるきっかけになると思います。記述を見つけたので一言。私たちは食料や製品を海外から輸入しているが、生産の過程で大量の水を使う。だから生産国の水問題と私たちの暮らしには関係性があるということ。でも、その関係性はいろいろだ。私たちが生産地の水問題に加担している場合もあるかも知れないが、様々な事情がある。農業にも家族農業(小農)と企業的な農業がある。日本に向かう食料のバーチャルウォーターはアメリカ、オーストラリアからが多いが、その生産は資本主義にもとづく企業的な農業かもしれない。貨幣の増殖が目的とすると、水資源のコストが高くなったらビジネスを停止することになり、実は困るのは日本かもしれない。関係性にもいろいろある。

 エンパシーと対話

19日になってしもうた。でも、まだ続けようと思う。時々寄って見てください。講義ではエンパシーが大切だなんて高みから偉そうに言っているが、実は難しいものだ。第3者として問題を眺めるときにはそれなりにエンパシーを発揮しているように思える時もあるが、あなたと私の関係になるととたんに難しくなる。自分が理解されていない、なんでわかってくれないの、と思うが実は相手も同じ。つい感情的にもなってしまう。そんな時は、“対話”ができれば良い。できるような状況に持って行くのも難しいのですが、対話の中身は何でも良いのです。問題について語らなくてもよい。対話をしている間に、信頼関係が醸成されてくればそれで良いのだ。だんだん人は諒解するようになる。問題を解決する唯一の素晴らしい方法なんてないのである。コロナ禍で対話の機会が少なくなってしまった。オンラインは決められたことを話すのは良いが、なかなか対話は難しい。そんな時はメールでも良いので、信頼できそうな相手に思いを伝えてみてはいかがだろうか。

 科学技術の進歩と環境の悪化

科学技術は進歩したが、空気や水質が悪くなってしまった、という言説がありますが、高度経済成長期はそうだったと思います。しかし、20世紀も終わりに近くなると、科学技術によってかなり環境は良くなってきました。今は下げ止まりの状況で、これ以上、空気や水をきれいにするにはコストの問題が出てきた状況です。人に対する影響も人権が重視されるようになり、一頃よりは改善されているように思います(まだまだですが)。現在は環境を良くするために新たな取組が必要になってきた時代と言えます。例えば、グリーンインフラストラクチャーがあります。社会の構造自体を変えて、良好な環境を取り戻そうという考え方もあります。地域循環共生圏にもそんな考え方は含まれているのではないでしょうか。地域創生に関する施策の中にも同様の考え方は見え隠れしています。その他にもありますが、行政文書というのは妥協の産物ですので、背後にある考え方、ひとの思い、といったものを想像して見ませんか。

 科学技術はやばい面もあるが、役に立つ

その通りですね。人が豊かに暮らすためにはあれば便利なものです。その功罪については考え続けていきたいと思います。「文明社会の野蛮人」仮説が参考になると思います。ふと思い出しました。宇宙進出は人類の夢ですが、それはどういう状況の時だろうか。経済がすこぶる順調で、誰でも低コストで宇宙に旅立つことができる。それとも、人類が地球上に住めなくなり、宇宙へ開拓地を求めて飛び立つ。その時は誰でも公平に宇宙船に乗ることができるだろうか。手塚治虫の「火の鳥」には、宇宙に旅立った人類が、地球が恋しくなって戻ってくるのですが、地球が受け入れを拒否するというシーンがあります。手塚はすごかった。

 様々な関係性の探索

オリンピックがもうすぐ始まりますが、至るところにプラスチック容器入りの消毒液や、パーティションがあるという。ボランティア頑張ってください。そのプラスチックはどうなるのでしょうか。もちろん、適切に処理されるとは思いますが...。数年前にマイクロプラスチック問題に関するシンポジウムに参加しましたが、講演者用にペットボトルが配られていました。聴衆から指摘されてばつの悪い思いをしたものです。環境問題をについて考える時は、様々な関係性を探索してみてください。そうすると、問題の本質、どうすれば良いか、ということが見えてくるかも知れません。人間は矛盾した存在です。だから愛しいのかも知れません。

 年寄りと科学技術主義

私は君たちの3倍の期間を生きてきたシニアです。若い人たちの考え方を知り、科学技術主義に囚われているのは私より年上のシニアの方々ではないか。それも政治家や実業界で成功していた方々。そんな気がします。それは高度経済成長の記憶が鮮明だからだと思います。私は科学技術の発展に期待しながらも、新しいステージの社会をめざしたいと思います。それは定常社会とか縮充社会といった考え方が出てきており、政策にも影響を与えつつあると思います。学者たちも夢を見ているだけではないのです。未来を設計するためには、視座、視点、視野を多様化、拡充し、この世界を理解しようと試みてください。それが大学における学びの目標だと思います。専門性を深めつつも、世界を俯瞰するという姿勢を忘れないように。そうすると、道が見えてくるかも知れません。老いて説教爺になりました。

 エネルギー問題

いや、これは深刻な問題ですぞ。ゼロカーボンは達成できるのか。日本は欧米のように再生可能エネルギーを活用することができるのか。製鉄やコンクリート製造はどうするのか。まだ製鉄のゼロカーボン技術はありません。水素による鉄の還元は吸熱反応ですのでエネルギーが必要です。SMR(小型原子炉)でエネルギー供給が可能といっても、日本でできるのか。台風に耐える洋上風力発電施設はできるのか(欧米は台風並みの嵐は少ない)。分割された電力会社のもとで周波数の統一や電気の融通はスムーズにできるのか。低成長時代に入り、国民は再生可能エネルギーのための資金を準備できるか。たくさん、問題点を列挙することができます。世界的なゼロカーボンの動きはビジネスのイニシアティブ獲得競争でもあります。でも悲観的になっては先に進めませんね。正しく希望を持って先にすすむことが大切だと思います。夢というのはバックキャストして人生のあるタイミングで実現させるものです。妄想ではありません。

 問題の解決の共有

この表現に関心を持ってくれてありがとう。もとは環境社会学の教科書か、内山節あるいは大熊孝の哲学のどこかにあったのだと思いますが、出典を見失っています。科学者は良くテーマを決めて国際共同研究を行い、カンファレンスで発表するという研究の様式になれています。「地球温暖化」というテーマに対しては、科学者がそれぞれの成果を持ち寄って情報交換し(論文を書くということも含みます)、研究者としての評価指標を上げて、めでたしめでたしということになります。しかし、「地球温暖化問題」では地域における人と自然の関係性が問題を生じ、そのステークホルダーは科学者だけではなく当事者すべてを含みます。ここに「問題の解決の共有」の必要性が生まれます。ここに、Transdisciplinarity、日本語では超学際と訳されているものの姿があるように思います。

 都市的世界と農村的世界を行き来すること

やっぱり難しいかなぁ。でも、そう思っているのは都会に住んでいる方々かも知れません。地方の農山漁村の方々は日本国内だけでなくグローバルな視点を持っています。福島でもいろいろな方々に会いました。阿武隈山中の農家さんは国内の産地の動向を常にモニタリングしていました。農業ってけっこう競争しているのですね。高原野菜を長野と競ったりしています(もちろん、311以前の話です)。避難解除された地区で花卉栽培を始めた若者は、東京の花卉市場で修行をしていました。ニットの工房を営む方も若い頃は東京で修行していました。もちろん、今でも行き来しています。喫茶店を再開した飯舘村のご夫妻もそうだったな。都会からは地方は見えないが、地方からは都会がよく見えているのかも知れません。少し豊かで楽しく誇りをもって暮らす生活の中で、低コスト、低負荷の暮らしも実現させている。私は農村びいきですが、リサーチしてみませんか。

 自然とのつきあいの大切さ

このことを書いてくれた方もたくさんいました。うまく説明できませんが、何か私たちの精神の中に、自然の中で暮らしたい、自然と関わりを持ちたいという意識があるのではないかという気がします。でも、自然なんか無くても生きていけるではないか、という人もいます。私も、里山がなくても生活できるじゃん、と卒論発表会で科学者である教授に言われたことがありました。その時は、里山のあり方は、近代文明人である我々の生き様の反映なのだ、だからきちんと保全しなければあかんのや、と反論しましたが、やはり人間の深層の中にあるものではないかという気もします。江戸時代までは人と自然を区別する考え方はなかった様です。自然は“じねん”と読み、“自ずから然り”のとおり、人も一緒になって存在しているものだったのです。明治になって、おそらくnatureの訳で自然が使われたのだろうと思います。そこには西洋的な人と自然の関係性があるわけです。明治以降、日本人の自然観は変わりました。ここは内山節のパクリです。

 メガソーラーは熱海土石流の直接の原因ではないよ

7月3日の熱海における土石流発生と谷頭近くにあるメガソーラーはとりあえずは関係ないと思いますよ。一番の問題は、谷頭部における法令を遵守しなかった残土の投棄だと思います。盛り土という表現も聞けてきますが、地盤に関わる法律ができてから、きちんと施工された盛り土は、とりあえずは問題ないわけで、盛り土=危険と短絡させることはいかんと思います。熱海は古い火山の山麓で、火山は急激に開析される途上にある地形です。伊豆山付近の地形も土石流が形成した地形と考えることができます。地理学的な知識から土石流を予見することはできます(いつも後出しじゃんけんですが、予見されて対策している場所もある)。土地の成因、性質は私たちが生きていくための基礎的知識ではないでしょうか。来年から高校で地理総合が必履修化され、高校生は土地の成因、性質そして災害を学ぶようになります。

 自分の目と心で見たものを信じる

それは何よりも大切なことです。ただし、視座(どんな立場で見ているか)、視点(どこから見ているか)、視野(どのくらいの範囲を見ているか)をいつも気にしてほしいと思います。自分には見えていなかった世界があるかも知れません。以外と、テレビや雑誌も役に立つと思います。今はJ-STAGEも充実したので、論文を検索することも楽になりました。自分の専攻分野と異なる分野の学術誌も探すと意外な発見がありますよ。

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 ここまで読んでくれてありがとう

近藤はもともと理系人間でした(学位は理学博士)。若い頃は証拠と論理に基づいて科学的成果を出すのだ、と思っていましたが、環境という複雑で多様な対象に関わるようになって、様々な状況証拠が同じ方向を指していたなら、それで仮説を構築するのが環境学の手法だと考えました。さらに歳をとり、環境問題の人間的側面に関わるようになってから“感じる”ということも大切だと考えるようになりました。20世紀の文明はニュートン・デカルト型の一本道の科学が創りましたが、21世紀は新しい学術(科学より学術と言った方がすっきりします)の時代ではないかなと感じています。それは人文社会系では当たり前のことも知れません。現在の近藤の課題は文理融合のあり方を考えることです。
それにしても上から目線で、偉そうなことを言ってるだけの人にはなりたくはないのだが。「人類を全体として愛することのほうが、隣人を愛することよりも容易である」(エリック・ホッファー)。

書き下ろしですので、おかしな事も書いているかも知れません。その際は質問・コメントをお寄せください。