地球人間圏科学の対象が自然と人の関係だとすると、新型コロナ禍はまさに自然であるコロナウィルスと人および人のつくる社会との関係性における問題といえる。新型コロナウィルスとは戦うのか、共生するのか。それは文明のあり方に関わる根幹的な問題でもあり、学術の果たすべき役割がそこにある。

 今回の災禍に際して9年前の出来事を思い出した。原子力発電所の事故が放射性物質の生活世界への放出をもたらした時、人は科学的合理性のみに基づいて行動を決める訳ではないということに気が付いた事象であった。科学的合理性が機能するためには、前提として科学者も含むステークホルダー間で共感(empathy)と理念(社会のあり方)の共有に基づく信頼が必要となる。このことは(狭義の)科学の守備範囲が問題の解決をめざす枠組み(問題の解決を共有するステークホルダーのまとまり)の中では一部に過ぎないということを意味している。ここに超学際を推進すべき理由がある。

 しかし、"あるべき社会"の姿の共有は人が関係性を構築する"世界"の範囲が多様であるため、困難な課題でもある。だから議論が必要なのであるが、具体的な議論はすでに始まっているように見える。新型コロナ禍が顕在化してからも多くの論考が出版されているが、新型コロナ禍はこれらの議論を加速する役割を持ったといえる。

 あるべき社会、言い換えると持続可能な社会の姿の萌芽としては、国土形成計画(国土交通省)、環境基本計画(環境省)等の基本計画、あるいは日本学術会議の提言等があり、その中で理念が語られている。そこには、東京一極集中の是正、都市と農山漁村の相互貢献による共生、地域経済圏の強化による分散型社会、地域循環共生圏、等々の具体的な記述を見いだすことができる。これらはポストコロナ社会のあり方と直結する地球人間圏科学の課題でもある。

 これらの理念は社会で共有され、実践されてはじめて意味を持つが、現在実行中のSDGs、Future Earthはまさにその実践を目指したものといえる。SDGsの目標は"社会の変革"であり、科学者は学術セクターとしてその具体的内容を明らかにし、超学際の枠組みの中で役割を果たす必要がある。学術(科学)が成果(論文)を出せば、(科学者ではない)誰かが社会に役立てるわけではないのである。

 ポストコロナの時代における"社会の変革"の実践のためには学術と市民・行政・政治とのパートナーシップ(SDGsの17番目の目標)の構築が喫緊の課題になるだろう。その実践の中で(狭義の)科学の役割は相対化していかざるを得ないことを新型コロナウィルスは我々に迫っているが、SDGsの目標年の2030年がひとつのマイルストーンであろう。

 21世紀の学術とは何か。1999年のブダペスト宣言を経て、日本では東日本大震災、世界は新型コロナ禍を経験し、思想の段階から実践の段階に至ったといえるのではないだろうか。ISC(国際学術会議)の誕生も一つの契機だと思われる。実践の段階では問題の人間的側面の理解が不可欠である。新型コロナウィルスの科学が粛々と進む中で、人と自然の関係学である地球人間圏科学の役割は地球社会の過去と現在の包括的な分析と、(コロナウィルスの科学も含む)細分化された科学の統合、さらに超学際に基づく、ポストコロナ社会の設計と提案、実践にあると考えられる。

【追記】 要旨は何とか書いたが、今回の新型コロナ禍にはある種の割り切れなさがどうしてもつきまとう。それは、現代社会が命よりも大切なものを作り出してしまったのではないかという疑念である。資本主義の原理でもある貨幣経済では価値を貨幣に変換して蓄積、流通させる。その際に、"生きる"ための"必要"部分も貨幣のフローに依存する社会を生み、フローが止まることにより暮らしの持続性が脅かされる人が出現する。それが社会の中で格差を生み出す。新型コロナ禍の負の側面に関する報道を見聞きしながら、"No one will be left behind"の実現の必要性を改めて思う。