「若気のボヤキ?」というタイトルですが,若いくせにボヤキが多いと自分で思って付けました.若いから何をいっても許されるだろう,と思ってボヤキまくっていますが,一応責任のある職に就きましたので,自粛いたします.....
・・・と思ったら大間違い.ボヤキまくらせていただきます...^^;(そもそもいいたいことがWeb上でも言えないようじゃダメだし)



ミソジを迎えるにあたって

後1ヶ月以内にとうとう私もミソジを迎える.正直なところ,やっと30代になれる.というのが正直なところだ.と同時に,20代にすべきことを僕は全部やっただろうか(僕と私を使い分けているところが我ながら微妙だ),という疑問が沸々を湧いてきつつある.
 最初の部分,「やっと30代になれる」というのはこういう意味だ.多くの研究者,というより多くの人たちが30代は働き盛りという.つまり,大きな一仕事ができる年代であるということだ.また,全く言い訳の聞かない年代であるともいえる.これが20代だったら何か失言,あるいはポカをしでかしたとしても「まだ若いから」の一言で片づけられる部分もあっただろうか,30代になってしまったらそのようには周りは一切見ない.(少なくとも,30すぎてそのような言い訳ばかりしている人を僕は信用していない).ようやく,社会人として腹がくくれるということだ.普段から実際の年より老けてみられる自分としては(おそらく態度のでかさと,学位を取ってから千葉大->名古屋大とあわただしく移動し,また,共同研究をするフィールドを大きく替えたことにも起因するかもしれない.もっとも,元々老け顔[これは家系によるもの.うちの親父も昔はトッチャンボーヤと言われていたらしいが,今では明らかに実年齢よりも若い),ようやく見た目の年相応になったな,と実感できるの30歳ではある.
 一方,後者の部分は,やっぱり気になる部分だ.最近,Linuxの創始者であるLinus氏の自書伝?を読んだが,彼が僕のたった2つ上であることにびっくりし,最近よく聴くSteely Danがマニアックなまでに録音にこだわって作ったアルバム群ができたのも彼らが20代の頃である.こういうことを考えると,20代に何かを当てないとその後の人生にも強く影響を与えるのではないか?と感じてしまう.最も,僕は上記の2つの例に当てはまるような天才ではないから,比較すること自体が間違いであるが,それでも自分の20代はやれるべき事をちゃんとやったのか?と考え込んでしまう.日頃の雑務に埋もれている場合ではないのだ(雑務も若くないと体力的にやりきれない,と言う一側面はあるのだが).
 30代になる直前で,30になることを考えると,嬉しくもあり(80%程度?),考えてしまう(20%程度?)のであった.
追伸(その1):
 まだ自分が子供の頃,30歳まで独身でいるとは考えてもいなかった.こればっかりはね...~~;
(その2)
 30すぎても「若気のボヤキ」のタイトルは使えるのだろうか?多分,「ボヤキ」は減らないから,「若気」の部分をどうするかだな.

(2001年6月18日)


観測屋さんとモデル屋さんとリモセン屋さんのギャップ

 西田さん@筑波大・モンタナ大留学中とよくメールでやりとりするのだが,どうして”リモートセンシング検証対応”な観測が日本には根付かないのか,というのが最近のもっぱらの話題である.考えてみれば,僕が学位論文研究でフラックス観測をしたのも,日本にはリモセン検証データとして長期でフラックスを測られている地点が少なく,自分で測らざるを得ない状況にあったからだし,PGLIERCが海外では結構高い評価を受けたのも,この観測は日本でリモセン対応の総合的な観測がなされたことから来るものだと思う.
 と思っていたところで,GISPの後,飲み会で沖先生@東大生産研と話していたことだが,「観測屋さんとモデル屋さんとの間に観測項目でギャップがある」ということになった.その場にいたどっちもやる田中賢治さん@京大防災研も巻き込んでの話になったのだか,モデル屋としては;
1).入力項として放射4成分は必須
2).降水量は同じく必須
3).フラックスに関しては結局Qnを分配するので,Umbalanceはかえって面倒な結果を招く(これは樋口私見)
また,リモセン検証としては;
1)Overpass時にフラックス+地上物理量(LAI)が取れていること
2)サンプル数が多いのが望ましいので出来るだけ長期にデータ取得されていることが望ましい.
 と2つの要求が異なる.何はともあれ,しっかり話し合う場を持ち,これらのギャップを埋める努力を3者の視点で行うことが急務ではないか?(もちろん,樋口は長期でフラックスを測る大変さも分かっているつもりでいます)

 (2000年7月11日)

決断力と判断力

 僕が運転免許を取ったのは大学1年の夏休みだ.運転免許を持っている人(正確には自動車教習所に通って取った人)は分かると思うが,まず最初に適性試験を受ける.そのときの僕の結果が,判断力... ,決断力....なんじゃこりゃ,と,当時は思ったわけです,はい.

 しかし,その後の僕自身を振り返ってみると,確かに当たっていると思える節がある.まず;

1)食堂に行った際に食べるもので迷ったことがない(即決!)
2)観測の時に何か問題が起きた際には,これも”即決”で判断する(単に深く考えていない,という話もある)
3)(自分でいうのも何だが),学会発表では妙に押しが強い(単に偉そうにやっているだけ)

これは判断力の部分で,決断力の部分は;

1)これまでの研究で,研究の大きな変更については自分の意志で決めたものではない(夢と現実参照)
2)女性に関して,”見た目”と違ってからっきし弱い(学部の時の親友は”押しの弱いアツシ君”として認識しているはず)

 判断力5の部分で3)に関しては,最初は”決断力”(学会発表するかしないか)なので,僕は大学院3年(普通でいうところのD1)まで一切発表をしなかった.これはいうまでもなく決断力1の部分である.”決断”が”判断”に変わったのは,またまた,外力で,当時南京で行われたMacro-Hydrological Modeling Inter. WSにでなくてはならなくなり(近藤先生に脅されて...^^;),いきなり英語での発表が学会デビューになったわけです.
 おかげで,妙な度胸がつき,学会発表の類が”決断”から”判断”へと変化したわけです.

 しかし,女性だけはどうにもなりませんね.”告白”なんてのは”決断”の極致ですもんね...^^; これが”判断”に変わったら変わったで,とんでもない人間になりそうですが...^^;

(1999年11月5日)


筑波大学水理実験センター(現:陸域環境研究センター)在学時について

 僕は修士2年より4年間,筑波大学水理実験センター(http://www.suiri.tsukuba.ac.jp/) に机を置かせてもらい,研究を行ってきました.ここでの体験が現在の僕の研究スタイル(というほどのものではありませんが...^^;)のベースになっていると言えます.最初の1年間は,隣の机は遠藤さん(現フロンティア,当時D5)であり,また,2階には檜山さん(現名古屋大大気水圏,当時学振)が在籍していました.
 遠藤さん,檜山さんの研究スタイルは全く異なるものでした.遠藤さんは典型的なB型,といった感じで,のってきたときには2徹,3徹は当たり前でバンバン解析を行っていましたが,逆にやる気がないときは,ちょこっと学校に来たかと思うと,メールを見て帰る,なんて日もありました.逆に檜山さんは毎日学校に来て,必ず仕事をして帰っていった,という印象があり,また,口癖のように”一日に出来る仕事はたかが知れているから...”と独り言のように言っていたことを覚えています.
 僕も最初の頃は遠藤さんのようなスタイルで行っていましたが,いかんせん,体力がそれほどないのと,土日にはアルバイト(肉体労働)があったので,生活習慣を夜型にすることが出来ず,結局,檜山さんのような,毎日こつこつやっていくスタイルに変更しました.
 後期課程(筑波大は一貫性なので,こうは呼びませんが,便宜上)に入ってからは,これまで自分がやるとは思っていなかった微気象観測・フラックス計測のため,全く分からないことだらけだったのですが,水理実験センターの技官のポストがちょうどその時期空いていたため,僕がアルバイトとして実験圃場のメンテナンスを行うこととなりました.当時は大変だったのですが,今思うと,その体験があったおかげで,観測測器を触ることができ,AVNIR検証実験時のフラックス計測が比較的スムーズに行えたのかな,と感じています.
 また,宮崎さん(現水理センター助手),新村さん(水理センター準研究員),森さん(学振:現九大助手)といった,あまり年の離れていない先輩方に囲まれていたおかげで,何とか学位をまとめることができたんじゃないかな,ともしみじみ感じています.
 とにかく,水理実験センターは非常に居心地の良いところで,他の大学・研究センターと大きく違うところは,研究室別に学生部屋が分かれていなくて,違う分野の学生と毎日接することができることです.現在は,水文・生態・地形・気象の学生が同じ部屋で研究をしています(他の大学の先生に説明するのが結構難しいのですが...).このシステムは同じ研究室で切磋琢磨するというメリットはありませんが,耳学問ですが,広い知識を得ることができます.僕が学位を取るときには,気象の人たちはもちろん,生態の人たちからもいろいろな支援を受けることができました.これは非常にいいシステムだと僕自身は思っています.
 ただ,僕が観測でつくばに行ったときに見る現状では,そのメリットを今学生部屋にいる学生の皆様が,あまり有効に使いきっていないように思えます.かなり特異なシステムであることを認識した上で,うまく活用して欲しいと,OBの1名としてアドバイスしたいと思います.

(1999年10月16日)

中国ー日本共同観測プロジェクトに参加して(GAMEではない!)

 先月8/19〜29まで中国科学院と千葉大・筑波大・東大愛知演習林の共同観測プロジェクト参加のため,中国・華北平原へ出張した.このプロジェクトはGAMEのような気候・気象の研究者主体のプロジェクトではなく,あくまで水文学者による”中国・華北平原の水問題をどう扱うか?”という,きわめて現実的で切実な問題を内在している.
 今回僕は”気象観測のエキスパート?”として参加し(近藤先生が中国側にそうふれ込んでいたらしい),太行山(華北平原の源流部に位置する.昨年からクールドミラーによるボーエン比測定システムが稼働中),楽城(ランチャン)観測圃場(華北平原南西部に位置する,華北平原の穀倉地帯.ここには数キロ程度の均質なトウモロコシ畑が広がり,その中心部には36mタワーが設置してある.同じくボーエン比測定システムが昨年より稼働)を訪問した.僕の仕事は2つで;
1)太行山の15mタワーに温湿度計・風速の鉛直プロファイルシステムを新たに設置する
2)楽城に超音波・クリプトンハイグロメーターを持っていき,現地の研究者にその使用法,運鋭法を教える
である.
 1)に関しては,太行山に着いたときに,現地の技術者と話し合い,わずか1日でタワー取り付け金具等を自作してもらった.設置に関しても,僕が行ったのではなく,同じく現地の人にやってもらい,僕は下から指示するのみであった(最近タワーばっかりに関わっているような気がするが...).すべての設置は2日半で終わり,また,時間的に割にゆとりがあったので?,毎晩大酒をかっくらっていた....^^;.
 2)は太行山の作業が終わり次第,楽城に移動し,その翌日に実際にこちらでデモンストレーションを行い,現地の研究者に初めから同じことが出来るかどうかをチェックした.これも思ったよりすんなり終わり,最終日には,余った時間を使ってつたない英語でCR10のプログラミング講習会を行った.これは非常に効果的で,その翌日,ボーエン比のデータをもらいに行くのを忘れたため...^^;,再び楽城へ行ったが,現地に着くなり”新しいプログラムをつくったんた.でもうまく動かないから見てくれないか?”と言われ,わずか1日で自分たちでプログラムを書いていたことに驚いた.
 ここまでの話が現地で僕が行ったことであるが,GAMEにも参加している人間から見た,このプロジェクトのセールスポイントを列挙してみよう;

しかし,デメリットが無いわけではない;  特に2つめのデメリットを克服するためには中国側の積極的な参加が重要になる.特に,実際に作業を行う研究者(みんな僕と似たような年であった)の協力が特に重要である.そのためには,さらなる啓蒙(中国の研究者は科学というよりは業務として行う傾向が強い.何が科学的な視点で見て重要か?といった点を,ミニワークショップ,集中講義等を行うことでさらに補う必要がある)が必要であろう.そのための努力ならいくらでも行おう,と現地でひしひしと感じた.(日本に帰ってからはとたんに忙しくなり,その意欲もだんだん薄れてきたが...^^;)

追伸
 基本的に中国では毎昼+毎晩宴会でした...^ ^; 飲み過ぎ+食べ過ぎのため,帰国2日前にハラを壊しました.未だに本調子とはいえない状態が続いています.田中賢治さん@京大の苦労がわかりました.

(1999年9月03日)

10年後は何してます?

 先々週の話になってしまうが,筑波大で学位論文の最終発表会(公開発表ではない,筑波大は公開発表の前に最終発表を行わなくてはならない.僕の時はその前に中間発表を行う必要があった)が行われ,僕の同期が発表した.そうなると夜はお約束のお祝い飲み会になるわけだが,そこで同期の友達に突然こんな事を聞かれた;
”十年後は(自分は)何していると思う?”
 ちょっと考えてしまったが,僕はこのように答えた(と思う);
”十年後ねー,どっかの大学の助教授になっていたらいいなー.”
 まあ,何とも夢のない回答である.”個人的にはポストリモートセンシングとして何か違うことをやっていたいな”,と付け加えたが...
 友達曰く,”十年後何やっている?と聞くことで,その人が今何を考えているか分かる” だそうだ.となると,僕には今夢がない,ということになってしまうらしい.

 果たしてそうなのだろうか?こんなところでボヤいている場合ではないかもしれないが,実際は十年はあっと言う間に来てしまう.十年前と言えばちょうど大学受験のころになるが,振り返ってみるとあっと言う間にこの年になってしまったような気がする.20代でそう感じるということは,30代はさらに加速度的になっていくのは想像に難くない.

 10年後と言うと37歳である.僕のボスの近藤先生が筑波大から千葉大に移った頃の年であると考えるとやっぱり助教授というはそんなに夢の無い答えではないとも思えてくる.近藤先生が都立大から筑波大に移られたときには,当時の僕からみると”とにかくすごい先生だ!”であった.近藤先生が筑波に移られたのはその3年前になるから,34歳位であろうか.そう考えるとあまり時間がないように思えてくる.34歳まで後6年,それまでに僕は何ができるだろうか?当時大学院前期1年生であった僕が近藤先生をみて思ったように,僕が学生を持ったときに同じように思われるのであろうか?それは今後数年の研修者のたまごの期間の過ごし方にかかっているのかもしれない.

#追伸...近藤先生は今もすごい先生です.はい.
 

(1999年7月02日)

夢と現実

 私が子供の頃になりたかった職業は実は”バスの運転手”であった.幼稚園ぐらいだったと思うが母親に連れられバスに乗った際,シフトレバーや様々なボタンを自在に操る運転手さんをみて,子供心ながら”この仕事は面白そうだな”と思っていた.その後,小学校高学年になると歴史に興味を示し,社会科の先生になりたいと”夢”はより現実的なところに変移していった.しかしながら,中学にはいると部活(剣道部)の顧問の先生が社会科(歴史)の先生であり,その先生が非常に当時怖かったため?,社会科の先生になるのを諦めた覚えがある.また,当時は環境問題(特に砂漠化)が大きくクローズアップされていたこともあり,砂漠化の研究をするような職業に”付けたらいいな”程度に漠然と思っていた.中学生時分では,”研究者”という職業があることすら考えてもいなかったし,過去の偉大な科学者はみんなブルジョアで自費を投じて研究をしていたとばっかり思っていたからだ(これは半分は合っているとは思うが....).高校に入ると,これまで考えていたことは一切考えなくなり,”男はやっぱり理系でしょ!”とわけのわからん理由で理系コースへ行き,筑波大に入学した.将来の職業に対する思いはさらにあきれるほどなくなり,大学入学当時はバブル絶頂期ということもあり,”就職先は山ほど来た書類を投げ,一番遠くに行ったところへ決めた”という先輩たちのホントかどうか分からない噂を間に受け,あきれるほど授業に出ない学生であった(広末ほどではないが...^^;).入学当時は物理学専攻に漠然と進もうと思っていたが,いきなり挫折し,半ば消去法で地球科学専攻にしたが,その中で”水文学”(当時はミズブンガクと読んでいた...^^;)と聞いたことも無いような主専攻があるのを知り,”聞いたことも無いようなところだから行ってみよう”とかなり不純な動機で水文学に進んだ.その後,水文学は非常に野外巡検が多く,大学3年の春に今市(栃木県・日光の麓)での地下水流動系の観測に参加した.その際,卒論の指導教官となる嶋田先生(現熊本大)と一緒に河川の流量観測を行った.このときの流速は1m/sで水深が腰程度まであり,やったことのある人なら分かると思うが,非常に危険な状況で初めて河川に入り,流量観測を行った.この経験は非常に怖かったが,同時に”水文学とは何か?”を一発で認識させるに十分な経験であった.観測は4日間行ったが,他の学生が勉強のためにそのほかの項目(電気探査,地下水位調査等)を学ぶために日替わりで項目を変更しているのに対し,私のみ4日間ずっと河川の流量観測であった.その理由を最終日の夜(当然宴会になるが..)に嶋田先生に聞いてみると,”樋口君は河への入りっぷりがいいから,ずっと流量観測にしたんだ.他の項目はいつでもできるからね”との答えを得た.その一言で私は水文学に進んで良かった,何はともあれ認められた,と非常に単純な理由で研究の入り口に入ったわけである.
 とは言っても,当時私が考えていたのは”地下水流動系”の研究を大学院に進学して続けようであり,現在行っているようなリモートセンシングや微気象観測は一切考えていなかった(特に後者は最も苦手な部分だと当時思っていた).研究の方向性の変化は自分で決めたわけではなく,大学院入試の面接のときの当時水文分野のボスであった某K 根教授の最初の一言であった.”君,連携大学院だったらどうする?”連携大学院とは,つくば市に点在する国の研究所に大学院生を預け,そこで学位論文を書くシステムであり,私の代でまだ2年目という新しいシステムであった.水文学分野では科技庁防災科学研究所と提携を結んでおり,当時,私の1学年上の山中さん(現広島大)が在籍し,もし私が受験した年に合格者が出れば,幾志先生のところでリモートセンシング技術の水文学への応用を研究テーマとして研究を行う予定になっていた.”リモートセンシング”を当時全く知らなかった私は,某K教授の一言を聞き,頭の中が真っ白になりながら,(ここでイヤだと言ったら落ちるんだろうな)と半ばやけくそな気持ちでこう言ったのを未だに覚えている”行けるところならどこへでも”.よっぽど私の返答がやけくそ気味に聞こえたのかどうかは分からないが,その直後,面接会場は爆笑の渦に包まれてしまった...^^;.その後めでたく?,連携大学院の学生として進学が決まったわけである.

 今思い直すと,この道(研究者)に進むことも自分の強い意志で決めたわけではなく,また,現在の研究テーマであるリモートセンシング技術の水文学への応用も”外”からの力によって決まったものである.
しかし,それで後悔しているか?と聞かれれば,全然していない.と胸をはって?答えることができる.現実は”外”からの力(環境ともいうが)によって大きく作用されるものであるし,私の場合はそれがたまたまうまくいった(ひょっとしたら某K教授は私の性格を考慮に入れた上,そう言ったのかもしれない...あんまりあり得そうもないが...)だけかもしれないが....

(1999年6月22日)


観測屋さんはデータ公開がへた?
 
 個人的な話になるが,現在人が観測したデータの整理を行っている.いわゆる”微気象観測”であるが,データロガーを複数使う関係上,どうしてもデータが分散的になってしまう.これらのデータをまとめて1つの大きなワークシートにする必要があるわけだが,各データのformatがさっぱり分からなくなっている.観測を行った本人は多分分かっていると思うのだが,”他人”である私がみると最初は何が何だかさっぱりわからないのである.今回の場合は不幸中の幸いというか,一緒にCR10(某ロガーメーカーのロガー名...^^;)のプログラムが入っていたので,そのプログラムを解読することによって,何とかデータの内容が分かりつつある状況にある.
 今回のデータ整理を通じて思ったことは,”観測屋さんはデータ公開がへたなのかな?”である.確かに自分も観測屋の端くれではあるが,思い当たる点は多々ある.例えば,観測している間は,とにかく各項目が無事に測定できることに全精力を注ぎ,その解析には細心の注意をはかる.但し,問題はその後で,解析に使うのはその全部のデータの中で,気候条件,観測条件,測定条件が整った1部のみであり,残りのデータに関してはあまり関心を持たない,いってみれば”おいしいとこ取り”で”うまくない”ところは封印してしまうところである.
 観測されたデータは観測したときその瞬間を表す再現性の無いデータであり,そこにオリジナリティがあるわけだが,これらのデータもそのはかった本人しか分からなければ宝の持ち腐れになってしまうのではないか?良質の観測データが欲しい研究者(特にモデル屋さんを中心にして)は山ほどいるが,少なくとも日本に関しては,観測屋さんのデータ公開がどーもうまくないためにそのあたりの連携がうまくいっていないように思える.
 自戒の意味も込めて,これからは観測したデータをできるだけ早く(最悪でも半年遅れ程度)で,Internetを通じて公開するように心がけたいと思う.現在,水理実験センターでリモートセンシング実験を行っているが,この観測は自分で言うのも何だが,かなり質の高いデータがこれまで取得できているといえる.これらのデータも自分たちの中でとどめてしまったら成果としては半分であり,このデータを用いて,”他”の研究者の役に立てれば,プロジェクトとしては成功であると思う.また,来年の”自分”は”自分”ではないことも肝に銘じる必要があるだろう.
(1999年6月18日)