4月8日講義と課題1のコメント

ワシントン条約に登録されている希少生物種の乱獲も現地住民への報酬が支払われていることで正当化されることがある?

 これは知りませんでした。地域に暮らす人々の伝統的な習慣としての狩猟や採取は、権利として認めて良いと思います。それはローカルな営みであり、その地域における永年にわたる人と自然の関係性の営みであるうちは良いのですが、グローバルな経済活動の一環として、狩猟、採取された希少生物種が商品となることは問題だと思います。地域の方々が豊かになるためにはどうすればよいのでしょうか。豊かさとは何か、持続可能性とは何か。地域を越えた人間の生業に、哲学が必要な時代になったといえます。

ナショナルジオグラフィクスにも氷河を信仰する少数民族が、地球温暖化に対し無力感を訴えるという特集がありました。

 そうですか。信仰の自由は人権でもあるので、氷河が無くなってしまうという懸念は氷河を信仰する方々にとっては深刻な事態でしょうね。氷河の融解が先進国の人間が利益を追求した結果、引き起こした事象だとすると、氷河融解のデメリットを受けるのは原因者ではない現地の人々となります。受益と受苦が離れてしまう問題を環境社会学では受益圏・受苦圏問題といいます。解決が難しい課題ですが、一歩進むためには講義で話した共感(エンパシー)をすべての人々が待つことが必要だと思います。

課題1:はじめに 時間はかかりますが、少しずつ記述を進めます。

 COVID-19は何をどのように変えるのか、それとも変えないのか。このことを考えるためには、現在の社会の有様を総合的、俯瞰的に(昨年10月の学術会議会員任命拒否問題で菅首相が使ったので、以降、私も好んで使っています。言われるまでもなく、環境に関わる研究者の当たり前の態度ですに理解するということを試みる必要があります。同時に、社会の底流がすでにあるのかも知れません。COVID-19はそれを奔流に変えるだけかも知れません。課題は終了日時を過ぎてから一気に読むことにします。

変わるvs変わらない

 皆さんの記述に目を通しましたが、ほとんどの方が社会は変わると考えていました。ただし、本質的な社会の変化の必要性まで突っ込んだ記述がほしかったかなと思います。また、変わらないという方もいましたが、諸外国の様子の背景にある精神的習慣といったものを追求すると、考え方も違ってくるかも知れません。直感的な判断は極めて重要ですが、大学では直感の“原料”となる知識、経験の蓄積と、自分の判断の検証を行い、考え方を深めていく訓練ができればいいなと思います。

世界では何が問題で、どうしようと考えているのか-グリーン・リカバリー

 自分で考える習慣は大切ですが、同時に様々な情報源を探り、世界では何を問題と考え、何を やろうとしているのかをサーチする姿勢が大切です。ここで、キーワードを一つ提供します。「グリーン・リカバリー」。検索して見てください。

様々な営みの関係性を認識すること

 世の中には様々な営みがあります。パリ協定SDGsは知っていますね。それぞれ個別の活動と思われるかも知れませんが、それぞれの営みを未来に向かって伸ばすと、必ず交わるところがあると思います。そこではどんな社会が望まれているか。考えて見ませんか。

そもそも何が問題か

 ポストコロナ社会に関する様々な論考を読んでいると、多くの方々が問題だと感じているのが行きすぎた資本主義であることがわかります。資本主義の目的は貨幣の増殖であり、そのために市場の持続的拡大が必要となり、その過程で様々な問題が生じます。日本では90年代後半から強化された構造改革と称する新自由主義政策のもとで進展する経済至上主義が何をもたらしたか、考えて見ましょう。最近、イエレン米財務長官がG20で強調して法人税引き下げ競争をやめるように提案がありました。背後に何がありますか。

オンライン講義に対する評価

 これは割れましたね。オンラインは便利だ、いや対面がよいのだ 、といろいろです。近藤の考え方はこうです。“学”が付いた体系ができあがっている学問分野はオンラインで良いと思います。すでに分野の知識が体系としてまとまっており、日本では参考書等、情報は簡単に手に入れることができます(実はこんな良い国は世界では少ないことを認識してください)。解決されている問題に対しては、自分で努力する余地が残されていますし、それでもわからなかったら教員に質問すれば良いのです。近藤は“学”の部分はWEBに置いて、双方向型オンライン講義ではなるべく脱線するようにしています。いい加減なことをやっているように聞こえるかも知れませんが、脱線は新たな関係性の提示であり、関係性の探求こそが環境問題を理解するために必要な営みです。WEB教材に書いてあることに気が付きましたか。ポストコロナ社会では様々な形態の講義を駆使して、関係性を探求し、新たな発見を誘導する習慣を学生に教授したいと考えています。

仕事の形態

 テレワークは仕事のあり方を変えるかも知れませんね。人はゆとりを持って仕事に打ち込み、生きがいを感じることができるようになるでしょうか。そうしたいものです。近藤は“鉄腕アトム”を見て育ちました。あの頃は(昭和30年代)、科学技術の進歩が人にゆとりをもたらし、より創造的な仕事に打ち込めることができるようになると信じられていました。あれから数十年が経ち、世の中はそうなったでしょうか。なってませんね。なぜか、ということを考えてください。幸せとは何か、を考えると良いと思います。幸せとはお金かな。何か大きな意識の変革が必要であるような気がしませんか。それが、SDGsが目的とする“社会の変革”です。

未来は創るもの

 老いた身で若者の書いたものを読んでいると、どうも若者は未来は創るものという意識が希薄なのではないかという気がしてきます。未来は与えられるものといった感覚も感じてしまいます。未来は創るものです。そう思って創るものであるし、そのプレーヤーは君たち自身であるという意識を持ってほしいと思います。そんなことは一人ではできないと思うかも知れませんが、世の中を俯瞰して、自分の考え方を持ち、主張すれば誰かが聞いています。自分は一人だと思っていたら、実は同じ考え方を持っているサイレント・マジョリティーのひとりだった、なんてことはあり得ることです。老人として、これは言っておきたいな。

与えられるということ

 ふと思いついたので書いておきます。鷲田清一が「しんがりの思想」の中で書いていましたが、日本では安全・安心に関わることはすべて行政がやってくれる。警察、消防、医療、福祉、教育、などなど。だから、日本人はクレームしか言うことがなくなってしまった、と。千葉大学では全員留学が頓挫しているところですが、再開したら世界の田舎を経験してきてほしい。こんな良い国は世界の中でも稀であることがわかるでしょう。でも、日本は低成長時代から縮退の時代に入り、その体制は維持できなくなるかも知れません。すでに負の局面は顕れていると思います。若者が生きていく時代がこれまで通りだったら、苦しい時代になると思います。だから、“社会の変革”が必要なのだと考えています。SDGsですよ。

生きづらい世の中

 この表現が気になりました。そういう世の中にいずれ出ていかなければならないという不安はあるでしょう。また“孤独”というキーワードも何回か出てきました。気持ちはよくわかります。人が満足を感じるのは集団の中における承認であるということはDNAに刻み込まれた本能だと思います。まずはこの世界の有様をじっくり観察し、理解を試みてはいかがでしょうか。それが大学における勉強の意味の一つです。そうすると、自分が関係性を持つ集団やコミュニティーを外側から俯瞰し、じっくり眺めることができるようになります。その状態を大和言葉で“ひとり”と言うのだそうです(ひらがなで書きます)。宗教学者の山折哲雄が述べていました。この“ひとり”こそ英語のindividual(個人)に相当するもので、実は日本にも欧米社会の個人主義の伝統はあったのです。“ひとり”を愉しめるように、大学で修行しましょう。

意識世界-自分が見ていない世界

 近藤は意識世界という言葉を使っています。哲学者の内山節が、人が関係性を持ち、考え方を構築していく範囲を“世界”と称していましたが、意味を明確にするために意識世界としました。代表的な意識世界に、都市的世界と農村的世界があります。みなさんの記述を読んでいると、多くの方が都市的世界の住人であることが何となくわかります。しかし、その外側には広大な農村的世界が広がっています。自分の意識世界の外側を覗いてみると、新たな発見があるかも知れません。いや、絶対にあると近藤は思うのですがね。都市-農村関係はFuture Earthという国際共同研究プログラムにおいても重要な課題になっています。Future EarthはSDGsをサポートする科学の営みです。

二極化の進行

 私もこれは懸念事項のひとつと捉えています。意識や意欲の違いが二極化を生み、それが新自由主義経済の中で格差につながってしまう。それをどう是正したら良いか。いろいろな取組があります。教育は重要な取組の一つですが、ESDもその一つです。Education for Sustainable Developmentということですが、日本がヨハネスブルクサミット(Rio+10)で提案し、国連ESDの10年の取組を始め、現在フォローする取組が進められています。環境学習もその一つで、千葉県も昨年度末に千葉県環境学習行動計画を策定したところです。とはいっても現実の前ではオロオロするばかりです。社会の変革に繋げなければなりませんが、実は少しずつ社会が変わっているような気もします。従来の貨幣獲得を目的としたビジネスではなく、ソーシャル・ビジネスを志向する動きが高まっているように思います。様々な営みを知ることから、意識の変革が始まるかも知れません。

新型コロナ禍とプラゴミ問題

 新型コロナ禍のもと、使い捨て容器が増えているという。私も西千葉駅地下Perieで弁当を買うことが多いのですが、研究室のゴミ箱には容器があふれています。近藤はペットボトルはほとんど消費しないようになったのですが、弁当は致し方ないですね。昼食はもっと質素にして、なるべくプラゴミを出さないようにしたいと思っています。現実世界の問題は関係性で様々な事象と網の目のようにつながっている。それを解きほぐして、新しいやり方を創っていかなければあかんなと思っています。

仕事の満足度

 ポストコロナ社会において重要なキーワードがこれですね。災禍の先に、満足できる生業を構築することができれば、災禍を乗り越えたということになりますね。みなさんにとって満足できる仕事に就くことができるか、ということはトップレベルの課題ではないかと思います。未来、といっても近い将来の仕事はどうなっているだろうか。山村に暮らす哲学者の内山節によると仕事と稼ぎは別物であるという。山村における“仕事”は人の生き様、生き甲斐や山村コミュニティーにおける営み関わる仕事であり、そんなに儲かる訳でもない。お金が必要になると“稼ぎ”に出るという。正確な表現は忘れてしまいましたが、こんなことが書いてあったように記憶しています。ポストコロナ社会におけるあなたの仕事は生きがいを与えてくれるもの、それとも稼ぎでしょうか。 ちょっと上で書きましたが、ソーシャル・ビジネスが一つのあり方かも知れません。

リーダーシップの重要性

 これも重要な課題ですね。寛容なリーダー、思いやりのあるリーダーが求められるだろうという記述がありました。それはエンパシー(共感)を発揮できるリーダーかも知れません。エンパシーとは作家のブレイディーみかこ氏によると“他者の立場を想像して、理解しようとする自発的で知的な作業”ということです。最近、いろいろな場面でこの言葉に出会うようになりました。みんながエンパシーを持ち、自律的に考えることができるようになれば、そこで求められているのは、調整型リーダーなのではないか。言い方は悪いのですが“無知蒙昧”な大衆を圧倒的な智慧と勇気で導く欧米型のリーダーは日本には向かないのではないか。調整型リーダーが望ましいと思いますが、国や社会のあり方に対する哲学を持ち、発信できるということが、もう一つの条件になります。

コミュニティーはどうなるか

 COVID-19の災禍の下、地域コミュニティーが縮小してしまうのではないか、という心配を語ってくれた学生さんがいました。日本のコミュニティー論は再編の時期にあるように思います。高度経済成長の時代は個人を分断させることによる統治のために、コミュニティーの解体が進んだ。一方、90年代後半頃から、人・自然・社会の関係性を重視するコミュニティ-の重要性が主張されるようになったように感じています。コミュニティの縮小を感じるのは、都市的世界における統治(あるいは支配)に慣れているからで、農村的社会におけるコミュニティーの温かさ、力強さに気が付くと、ちょっと違った見方も出てくるのではないかな。つながり、絆を求める大きなうねりがあるように感じています。近藤は内山節の著作や、農村計画学における田園回帰研究、地方創生政策、日本の基本計画(国土形成計画や環境基本計画)等の中に確実な底流を感じます。

デリバリーサービスのワーカーは保護されているのか

 新型コロナ禍の中、UberEatsや出前館が利用されるようになり、飲食業の形態も変わるだろうという指摘がありました。近藤は利用したことはないのですが、デリバリーを担当する ワーカーの権利は保障されているのだろうか。個人事業主としてリスクを負っている、労働単価が低い、なんてことを良く耳にします。だんだん改善されることを期待しますが、日本は先進国の中でも最低賃金は最低クラスです。人間としての権利の保障はいかがだろうか。ここは調べなければならないのですが、どんな職業でも誇りを持って従事できる社会でありたいものです。COVID-19の影響は不公平です。エンパシーの心を維持したいと思います。

新型コロナ禍もいずれ忘れられるか

 復興と風化は比例するという記述を頂きました。確かに時間が経つと災いの記憶は薄れていくが、それは人が生きるために獲得した本能とも言える。しかし、災禍の当事者にとっては忘れがたいことでしょう。実際、過去の記憶を教訓として維持して、災禍を逃れた事例もたくさんあります。災禍の記憶を記録として残すことができるのは人間でしかできないことです。とはいえ、教訓を活かすことができない日本社会の側面も顕わになっているようです。なぜか、と問うことが重要です。問うて、教訓をわがこと化して後世に伝えなければあきまへん。ここでもエンパシーの重要性が顕わになります。それでこそ人間。人間としての誇りを失ってはいかんと思います。

サプライチェーンの可視化

 新型コロナ禍が顕わにしたことの一つがこれですね。良い観点です。マスクがその一つ。品不足の時は大変でした。私たちは様々な原料の調達先を知る必要がありそうです。あまりこういう感覚は好みではないのですが、国としての安全保障という観点も大切だと思います。グローバル市場経済では、安く製造できるところで作って、供給地に送ることにより皆が豊かになれるという言説は幻でしょうか。2008年の食糧危機の時は多くの国で輸出に規制がかかりました。自国が大切なのは当たり前であり、自国民を飢えさせないのは国連憲章でも保証されている権利です。では保護的になれば良いのか、悩ましいところです。近藤は“必要”は自国で確保し、“需要”部分を貿易で調達できれば良いと考えています。ちょっと保護主義ですが、資本主義を前提とすると、世界はそんなに優しいわけではないという現実も見てしまっていますので、やはり考えにゃあかんなと思っています。

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ざっと書き下ろしていますが、ミスタッチや誤りもあるかも知れません。何か気が付いたら教えてください。