第2回課題に対するコメント 

はじめに

 第2回目の課題に対するコメントを書きます。繰り返しになりますが、私が書いたことは正解というわけではないことに注意してください。自分の考え方をはっきり持ち、それに則った生き様に責任を持つ、そんな気概を持ってほしいと思います。東日本大震災の時、“何を信じていいのかわからない”、という言葉が耳に残りました。それがまた聞こえてきます。感染症に対する科学的知見は日本では十分得ることはできます。それを知り、自分の行動を自分で決める、あるいは諒解するという態度が必要だと思います。諒解と書いたのは、自分の行動が他人に影響を与える可能性があるからです。新型コロナ禍への対応は鉄砲玉ではいけないと思います。考えましょう。考えるという習慣を大学で身につけてください。 ここは教員と学生が化学反応を起こす場(その触媒を提供する場)ですので、意見・異見など、思うところがあったら連絡ください。

 自然界のおきてと人間界のおきて

緑の革命によって単位面積あたりの食糧生産量は飛躍的に増加しました。現在の問題は生産量というよりも、配分の問題であることに同意します。そして、収量増加に限界があることにも同意します。では、人口は増加し続け、いずれ食糧危機が来るでしょうか。その時の対応は弱肉強食がおきてなのでしょうか。弱いものが滅びるのがおきてなのでしょうか。そんな世界は暮らしやすいですか。そんな世界を受け入れますか。
自由主義社会における競争とは、一定のルールのもとでの競争であり、闘争とは異なります。近代文明社会において人間は危機に際して互助の精神を発揮してきたことは歴史が示す通りです。自然界においては闘争はなく、命のつながりの営みがあるだけです。でも、人間の世界で闘争があったとしたら、その理由は何だろうか。それこそが私たちが考えるべきことです。
2007年~2008年頃、ちょっとした食料危機がありました。その原因を調べて、考えてください。あの時、いくつかの国は食糧の輸出規制を行いました。しかし、国民の食を守ることは国連人権宣言に定められた基本的人権でもあります(第25条)。
では、どうしたらよいのか。私はここに重要な変革の必要性があると思います。それは貨幣の増殖を目的として市場の拡大を求め続ける精神的態度にあります。資本主義の本質です。私たちは“必要”を重視し、それを満たすことで安心することができます。必要を貨幣に置き換えると、貨幣が手に入らなくなった時に、暮らしの危機が訪れます。必要を満たした上で、需要を呼び起こし、貨幣の獲得を目指してもよいと思います。それはゆとりでもあります。私は農村的世界は強いと思います。食の必要は満たすことができるからですが、そこが家族農業の強さです。そこには経済指標には入らない自給経済、交換経済がある。だから、国連「世界家族農業の10年」が実行されているのだと思います。
明治維新で日本は豊かな小国を目指すか、列強と肩を並べる軍事国家を目指すか、選択を迫られました。その選択は当時としてはやむを得なかったと思いますが、その帰結は歴史が示しています。現在はどうでしょうか。軍事が重要ですか。それよりも経済が人の尊厳に大きく影響する時代になりました。経済とはもともと「経世済民」の略語であり、「世の中を治め、人民を救う」という意味です(福沢諭吉が有名)。現代の経済はどうあるべきか。世の中は少しずつ変わってきているようにも思います。
私見を述べてきましたが、こんなところに目指す変革があるように思います。考えてください。なお、土地利用研究(地球環境変化の基幹的分野でもあります。LUCC:Land Use and Land Cover Changes)の重大な課題にランド・グラブ(報告してくれた学生がいました。よく調べた!)があります。これはリモートセンシングの課題でもありますが、調べてください。リモートセンシングで見えた土地利用変化の意味を知る必要があります。

 観光と経済

新型コロナ禍では人の移動が制限され、観光業が大きな痛手を受けている。そもそも観光とは何だろうか。最近、観光が注目され、大学でも観光学部等の新設が相次いでいるので、深い意味があるのだろう。不勉強ながら考えると、観光には大きく分けて、①貨幣獲得の手段としての観光、②この世界を理解するための本質的な価値を求める観光、をエンドメンバーとして捉えることができるように思う。今型コロナ禍の影響が深刻なのは①の観光だろう。もちろん、②でも“業”の部分の影響は大きいだろうが、レジリアンスは①より強いと思う。では、本質的な価値とは何だろうか。それは体験により世界を知るということ、自分との関係性に気づくということ、いろいろな意味があるだろう。それが人の思考を深め、変革への動機付けになるのではないか。40年近く前、カラチからナイロビに向かう機内でモスレムの方が言っていた。神がどのような世界を創ったのかを見に行くのだと。その後、サバナで見たゴゴ族の暮らしは貧しいに違いないのだが、明るさ、楽しさ、安穏といった印象を強く感じ、その後の自分の思想形成に大いに影響したと思っている。観光にもいろいろなやり方があるが、そこから何を学ぶか、考え続けてください。千葉大学は全員留学を打ち出しているが、是非とも世界の田舎中の田舎に行ってほしいなと思っています。

 異常気象と食糧問題

気候変動が食料危機を起こすか。重要な課題ですので、考え続けましょう。食糧危機というと私は1993年を思い出します。この年は冷夏で米の作況指数が74まで落ち込み、海外産の米の緊急輸入をした年です。日本の食糧自給率のグラフも1993年は落ち込んでいます。私は「現代農業」という業界誌を購読していますが、冷夏でも平年並みの収量をあげた農家さんの話を読んだことがあり、農業とは奥深いものだなと感じた記憶があります。最近読んだ本ではこんなことと知りました。岩手、北上山地というと冷害による飢饉が有名ですが(宮沢賢治の童話を思い出そう)、歴史資料を調べていると、深刻な飢饉のあった年にも、飢饉の記録がない集落があるという。実は冷害の影響を被るのは米作農家であり、山村の雑穀主体の農家では冷害の影響は大きくなかったらしい。実は異常気象の影響を受けやすいのは企業的経営による大規模農業である。それがグローバル市場を通じて、都市への食糧供給に影響を及ぼす。食料危機というのは都市の危機でもある。それは安心な社会のあり方だろうか。こんなところにも変革の芽があると思います。

 森林の危機

この課題はステレオタイプ的に捉えられることが多く、そうであれば一刀両断できるのですが、様々な事情についてご指摘頂きました。なぜ森林が伐採されるのか。様々な事情、様々な関係性(リンク)があり、それはグローバル社会の中で複雑な構造を呈し、それを読み解くのも大変です。学生の皆さんはステレオタイプ的な見方に囚われない姿勢を身につけてほしいと思います。しかし、複雑なものを複雑なものとして捉えるだけでは、どうすれば良いのかわからなくなってしまいます。私も思想は重要だと思います。和辻哲郎の「風土」(岩波新書にあり、第一章を読めばよいと思います)、鈴木秀夫の「森林の思考・砂漠の思考」(NHKブックス)あるいは環境社会学の安田喜憲のたくさんある著作などをお薦めします。また、地域研究、民俗学、環境社会学にも人と森林の関係に関わる研究がたくさんありますので、探してください。ジャーナリストによる現場取材の記録も重要だと思います。内田道雄はボルネオやスマトラの熱帯林を現場に深く入り込んでレポートしています。検索すればすぐにわかると思います。

 アフリカの食糧問題

アフリカでは食糧問題が深刻で、人の暮らしに影響を及ぼしているのか。現状を知るということは結構難しいものです。アフリカも総体として“貧しい”という図式ではなくなっているような気もします。恐らく国ごとに異なる事情があると思われますが、積極的に調べて見てください。先にも書きましたが40年近く前のケニア、タンザニアでは貧しさというよりも、(物質的ではない)豊かさを感じた。講義資料に書いた2008年のケニアの食糧危機はグローバル市場経済に農業が支配されたことが一因と考えている。昨年までケニアからの留学生がいたが、来日時の課題はトウモロコシの病気だった。それはプランテーション型の単一種による栽培が病気に対して脆弱になっていることを意味している。昔のトウモロコシ栽培は多様な種を使った気候の変動にも耐えられる農業だった。今、ケニアは花卉栽培が盛んである。それは航空機でヨーロッパに輸出できるから。それが食糧生産にも影響を与えていると聞いた。貨幣によって安全が担保もされ、脅かされる時代になったといえる。さて、日本人はどのように行動したら良いのだろか。

 エネルギー問題

何度も登場する重要課題です。未来のエネルギーの決定版はあるのだろうか。石油・ガスは確実に終焉があるでしょう。化石資源の終焉の前には価格の高騰が必ずありますが、資源の分配はうまくいくかという問題が生じると思います。メタンハイドレートも期待されますが、温室効果ガスの爆発的放出が起きてしまうかも知れません。となるとエネルギー問題における変革は何だろうか。一つはイノベーションであり、不安定な自然エネルギーを既存の電力網に接続する技術の開発が期待されます。しかし、それを拒んでいるのは貨幣の増殖を目的とする大企業の都合かも知れません。本質的な変革が必要だと思いますが、もう一つの選択肢は低負荷社会の構築だと思います。電気は私たちの暮らしに“便利”をもたらしますが、それは“必要”とどういう関係にあるか。節電が一つの方法ですが、社会のあり方を変えることも検討して良いのではないか。遠くで発電し、大消費地である都市へ運ぶという現状から地域で作り、地域で使う。地域が強い社会です。理想ですが、イノベーションとは理想が原動力にならないだろうか。皆さんにも理想を思い描いてほしいと思います。

 ゴミ問題

これも重要な問題です。ゴミの種類によって様々な事情があります。ゴミ問題を“わがこと化”するためには、自分の出したゴミがどこに行って、どの位のコストをかけて処理され、その過程でどんなことが起きるのか、について調べるとよいと思います。また、家庭ゴミ、事業ゴミは経路が異なります。産業廃棄物はどこで処理され、どんな問題をはらんでいるのか。産業廃棄物の事業者はどうも“悪者”というイメージで捉えられることもあるのですが、真摯に環境問題に取り組んでいる業者もいます。千葉大学に“近藤商会”という事業者が入っていますが、その社長(だったかな)が環境社会学会に入っていることを発見したことがあります(私とは関係ありません)。産廃処理場の運用には様々な個別の悩ましい事情があります。私たちも実はお世話になっているのですが、その関係性を理解する努力が必要だと思います。例えば、首都圏の除染物質はどこで処理するか。どこかが受け入れなくてはならない。自分の近くになければ良いのでしょうか。複雑な問題を理解し、諒解し、この社会の運営方法を考えることは人任せにすることではないと思います。人任せの時代は成長の時代の終焉とともに終わったのではないか。答えはひとつではありません。世界の関係性を理解が深まるにつれて諒解のあり方は変わっていくと思います。考え続けてください。

 食糧問題

これも何度も登場する、皆さんの関心の高い課題です。食糧(穀物 )の生産地は偏っています。だから、たくさん生産できるところで生産し、あまり生産できないところに供給するというのがグローバル市場経済の考え方でした。この考え方は正しいと思うのですが、問題は価値を貨幣に換算する資本主義の方法にあるように思います。すなわち、お金がないと食糧を買えなくなるわけです。以前は、アメリカは大量の食糧備蓄を行い、不足する地域に供給し、世界の食糧安全保障を確保していましたが、クリントン政権辺りから備蓄量は減っています。2008年の食糧危機の時には複数の国、地域で食糧の輸出規制が行われました。一方、自国の食糧安全保障を確保することは国連人権宣言で定められた権利でもあります。私たちはどうしたら良いのでしょうか。考え続けてください。
食糧における“必要”とは何だろうか、どの程度の量が必要なのか。一方、“需要”を満たすための食糧もある。贅沢なものを食べることは決して悪いことではなく、人は少しの豊かさを享受することは人権でもあると思います。無駄をなくすということは基本だと思いますが、消費における無駄、生産における無駄という観点も重要だと思います。野菜の産地にいくと、大量の規格外の野菜が廃棄されている場を見ることがありますが、農家は収入を維持するために廃棄せざるを得ない事情がある。その背後にある大きなシステムは何か。考え続けてください。
昆虫食という意見も伺いました。昆虫食の習慣がある地域では良いのですが、なかなか芋虫のフライ、なんて自分は食べられないな。イナゴの佃煮、サソリの炒め物、蜂の子、は食べたことがあります。皆さんはいかがですか。子供の頃、宇宙旅行では小さなタブレットが食事になるのだ、という話を聞き、スゲーな、と思いましたが、よく考えると味気ないですよね。生産に関しても同じです。園芸の関係者には申し訳ないのですが、福島の避難区域の農家さんを柏キャンパスの作物工場にお連れしたことがありました。スゲーと感動していましたが、ボソッと「でも農業としてはおもしろくないな」とつぶやかれたことが印象に残っています。農業というのはビジネスという側面もありますが、農の営みとしては職人としての意気込みがあります。少しでも良いものを生産するという職人気質があり、農というのは暮らしの一部でもある、そんな感覚は農村、山村にはあります。都会の人の農業と、地方の百姓の農は大分違うように思います。なお、百姓というのは百の技能を持つということ。
バーチャルウォーターについては講義資料の中でも触れましたが、私は資本主義の中で解釈する必要があると思います。輸出用の食糧は貨幣の増殖を目的とする資本主義の枠組みで考えた方が良いと思います。最近、中国がオーストラリアから小麦の輸入をやめて、アメリカから輸入するということが起きましたが、これは必要を満たすための食糧の貿易とは違いますね。私はまだまだ食糧自給を世界の地域で達成することは可能だと思っています。大きな市場から小さな市場に軸足を移せば、まだまだ人を養うことができる。それを拒んでいるのは何か。私はヨーロッパ思想でもある発展、進歩に囚われすぎているところにもんだがあるように思いますが、皆さんは考え続けてください。

 地球温暖化問題

これも考え続けなければならない重要課題ですね。でも考えるほど、問題の複雑性が見えてきます。そんな問題を最近は“やっかいな問題(wicked problem)と呼ばれています。参考資料はたくさん紹介しましたので、みなさんも考えてください。ところで、世界的には気候変動なのが、なぜ日本では地球温暖化となったか。それは気候変動となると気象庁の所管になる。そこで、地球温暖化として環境省の所管になったという経緯があります。結果としては良かったと思います。なぜなら地球温暖化と地球温暖化問題は別物で、問題を扱うには環境省の方が適当だったと思います。気象庁(気象研)では地球温暖化のメカニズムは研究できますが、人間社会との総合的な関わりは役所としては弱い部分だと思います。
人間社会のあり方と関わる“やっかいな問題”はメカニズムがわかれば解決するわけではありません。人文社会系の知識・経験、宗教や思想、哲学といった部分に入り込まなければ諒解を形成できないのではないかと私は考えています。地球温暖化は決して理工系のみの課題ではないことにも注意してください。ひとつ文献を紹介します。環境社会学会では昨秋の学会で初めて気候変動を課題として取り上げました。

 結局、世界の変革とは

良い意見を頂きました。「世界の変革とはすなわち人々の意識改革、精神鍛錬の後に現れる行動の変化」。便利あるいは楽ということを考えなければならないと思います。現在の日本は実はかなり楽な社会になっていると思います。人類の歴史は楽を追い求める歴史でもあり、それは先進国では20世紀には達成しました。日本は90年代から安定あるいは縮退経済社会に入っていると私は認識していますが(年寄りなのでそれがわかる)、時間軸で現在を捉えたときに、未来はこれまでの延長で良いのか。新しいフェーズに変わらなければならないのではないか、という意識が世界で芽生えてきたことがSDGsのモチベーションとなっているように思います。そのキーポイントは進歩、発展か、それとも新しいフェーズか、という点にあるように思います。ここで、進歩、発展というのはヨーロッパ思想(一神教の思想)で、資本主義と同期して世界を席巻しているのですが、もう進歩、発展のしがらみから脱却しても良いのではないか、と近藤は思っています。詳しい説明は省略しますが、人の精神的習慣というのはあるとき、ふっと変わるものではないか。新型コロナ禍がそのきっかけになりそうな予感があります。

 食糧の輸出規制

食糧関係のコメントでも書きましたが、食料危機が生じたら、各国は共助するのだろうか。インドについて調べてくれた学生がいました。米について書いて頂きましたがインドの米産地はパンジャブ周辺で、小麦を主食にしている地域も多いのです。パンジャブといえば、資料で紹介した「緑の革命とその功罪」の舞台ですね。カレーもインド国内で地域ごとに特徴のあるカレーが4種類位あります。千葉大近くのカレーはどの地方のものか、調べるとおもしろいと思います。さて、パンジャブでは米作の裏作はもともと雑穀でした。しかし、小麦が商品作物として儲かる、ということで米の後に小麦を栽培する農事暦が生まれたのは最近です。日本では米収穫後は稲わらをすき込んでしまうことは容易いのですが、トラクターのコストがかかるため、インドでは焼却した後、小麦を作付けます。それがインド北部の大気汚染と関わっています。地域によって事情は異なるので、一般的なことはいえませんが、インドでは食糧不足が起きているかどうか、調べてください。家族農業では、たいてい作物の自給、交換があり、それは経済指標には反映されません。家族農業は強い。だから、国連家族農業の10年が走っているのです。食糧不足が起きるとすると、それはまず都市から始まると考えて良いでしょう。需給というのはマクロな数字で示されるものと、実態は大分異なることがあります。だから、リモートセンシングで作物に関する情報が得られたとしても、その意味するところは現場の調査、協働が必要になるのです。現場における力を養ってください。
輸出と米価格について考察して頂きました。良い観点です。食糧の輸出を認めると、国内価格にも影響を与えます。インドの状況は調べてほしいのですが、昔ミャンマーについて調べたときにこんなことがわかりました。当時(20年以上前ですが)、ミャンマーには米の輸出余力があったのですが、輸出すると米の価格があがり、国民の暮らしに影響を及ぼすので、輸出は行っていないとのことです。食糧問題には見えない側面や様々な関係性(リンク)があります。そこを見つけていくことが研究という行為のおもしろいところでもあります。

 ゲリラ豪雨と地球温暖化

ゲリラ豪雨という呼称はオレが付けた、と亡くなった(株)ウェーザーニュースの創業者、石橋さんが言っていました。広まったのは2008年の都賀川水難事故です。Wiipediaにありますが、地球温暖化とか気候変動という用語は出てきません。同じ年、神田川で下水道の作業中の技術者が流されるという事故もありました。それは強雨強度が大きく、一気に増水したからです。どちらも都市型洪水として位置づけられます。これらの事故を教訓として、新しいレーダー観測システムが整備されました。それがXRAINと呼ばれるシステムでスマホでも見ることができます。
もちろん、地球温暖化が要因の一つとなっているゲリラ豪雨もあるかも知れません。気候変動は人類が協働して取り組まなければならない課題ですが、講義資料に書いたように、地球温暖化問題を共有するか、地球温暖化問題の解決を共有するか、みなさんはどちらの立場をとるか、考えてほしいと思います。

 日本の石炭政策

これも重要な課題です。すでに記述した点もありますが、最近の近藤の考え方はこうです。日本は自然エネルギーの活用を進めること。それにはインベーションが必要であり、政府の方針と合致しています。このイノベーションには技術革新と社会の変革の二つの観点があると思います。石炭火力については技術開発は進めるが、国内設置はやめること。その代わり、海外へ輸出する。海外では同時に自然エネルギーの活用も進めること。豊かになりたい途上国の意思は無視できません。日本が輸出をやめれば、別の国の性能が低い石炭火力は設置されるかも知れません。この様な政策をはっきり打ち出し、二酸化炭素放出量削減の道筋を示し、世界の同意を得る努力を継続する。
現在、パリ協定を達成できる削減目標を提出している国はありません。フランスは原子力、ドイツも2030年までは石炭を使います。国内の経済活動のために石炭を使わざるを得ない国もあります。それでも二酸化炭素放出量を減らすという意気込みを示すというのが欧米的な考え方のように思います。日本は現実的に考えすぎて、それが曖昧な態度の原因になっているような感じです。
ESG投資についても報告頂きました。ESGとは環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の頭文字を取ったものですが、この考え方が欧米の金融界から出てきたことは驚きでもありますが、すばらしいと思います。その背景にはキリスト教ベースのヨーロッパ思想があるのかな、と思います。勇者、ヒーローとしての理想的な行為を尊ぶ考え方です。みなさんはどう考えますか。そして、日本はどのように進むべきか。

 食糧問題-ランド・グラブ

ランド・グラブについて記述してくれた学生がいました。それは、先進国のアグリ企業等によって海外の広大な土地が買い占められ、住民の権利が侵されている問題です。土地利用変化研究(Global Change研究の主要な分野)における喫緊の課題になっています。ランド・グラブの目的は何でしょうか。食糧安全保障?誰の、どこの?それともビジネス?それぞれの事例について深く研究し、その成果を集積して、比較研究し、世界の有様を明らかにしていく必要があります。
同様の課題に、コモンズ(共有地)の問題があります。東南アジアで研究が進んでいますが、元は共有地だった土地が、国民国家の成立とともに地元の民の所有権が失われ、開発が進んでいく問題です。パルプ材、天然ゴム、そしてアブラヤシのプランテーションがあります。複雑で深い事情があり、時間の経過とともに問題の有様が変わってくる、まさに今研究を深めるべき課題です。

 貧困と幸せについて

何人かからこのキーワードに関する意見を頂きました。私自身も十分レビューはしていないのですが、貧困の意味について考える必要があると常々思っています。貧困を貨幣単位で表した経費で定義すると、自給経済、交換経済の部分は表現できず、暮らしの豊かさのある部分は表現できません。大分昔に農村計画学会誌の巻頭言で読んで覚えているのですが、経済学で「願望水準理論」というのがあるそうです。年収あるいはGDPが上がると、幸せと感じる水準が上がっていく、そのため物質的に豊かになっても幸せ感が得られなくなる。これは民族や宗教によって様々な考え方があると思います。幸せに関する学術分野は経済学や、最近では環境学でも論じられるようになってきました。今はそういう時代なのだと思います。ぜひ考え続けてください。

 個人の力について

常々思っているのですが、世界における様々な取り組みを見ていると、ある個人が努力しているのだなと感じることが多い。それは、なかなか見えないのですが報道、書籍や講演会、実際の活動の場、いろいろば場所でふと頑張る人の顔が見えてくることがあります。なるほどな、世界はこうやって運営され、変わっていくのだな、という感覚から自分の行動が見えてくることもあると思います。一方、世界にはたくさんの紛争や仲違いもありますが、それが国対国であっても、国のトップの少数の“仲良しグループ”の間のものであるのだなと感じることがあります。それが見えたら、ではサイレント・マジョリティーは誰なのか、感が得るとよいと思います。それが皆さんの生き様を変えるかも知れません。

 森林と環境

森林は環境問題を論じる時の、最も可視化しやすい対象でもあります。世界では森林面積を減少させている国だけでなく、増加させている国もあります。その背後には何があるのか、あったのか。もし、そこで仮説を思いついたのであれb、それを検証するための調査、まずは文献調査から始めてはいかがでしょうか。各国固有の歴史がわかってくると思います。これは文献はたくさんありますので、調べてください。各国の歴史を調べ、その過程でどのような人と自然と社会の関係性があったのでしょうか。その中から日本の関わりも見えてくると思います。
環境保護論とか環境倫理学の勉強をお勧めします。まずは、鬼頭秀一先生の著作を検索してはいかがですか。新書もあります。

 水資源は偏在する

水資源について意見を頂きました。まずは、言説に惑わされず、いろいろな場合、事情があるということを意識しましょう。我々が仮想水を輸入することにより、相手国は困るかどうか。重要な観点はグローバル市場経済だと思います。貨幣の増殖を目的として、貨幣に価値を変換させて貿易を行う営みでは、利潤を上げられなくなったら貿易は終わります。問題は、利潤を誰が得るかということです。市場の構造を知る必要があります。農家は資本に支配された弱者なのか。資本による水資源の収奪により、小農の使う水がなくなっているのか。小農と資本の関係はどうなのか。例えば、資本による綿のプランテーション(綿は世界市場で流通する商品作物で、乾燥地域に大規模産地がある)により、小農の水資源が少なくなっている状況が感が得られます。水資源は世界の中で偏在しますので、地域ごとに理解を試みる必要があります。ここがフィールドサイエンスの大変なところですが、日本には研究の伝統があります。
21世紀には水を巡って紛争が起きるといったのは、エジプトの大臣でした。それは92年のリオ環境サミットでは気候変動と生物多様性が取り上げられたので、次は水問題に注目しようという意図の元での発言でした。実際に2002年のヨハネスブルクサミットでは水資源が取り上げられました。確かに世界では水を巡る紛争はあります。しかし、それ以上に協調のケースも多いのです。

 援助について

ODA等の援助のあり方についてはいろいろな見方があると思います。悪い側面、うまくいかなかった事例ばかりが強調されてしまう傾向がありますが、実はうまくいった事例はたくさんあり、それは担当者の努力によって達成されたものです。JICA等の専門家、民間企業の方々、ボランティアの方々、による目的の達成を地域と共有する営みがたくさんあることを理解してください。確かにグレーあるいはブラックな行為があることは否定できませんが、事業の短期的な目標、長期的な目的の両方を共有した事業がたくさんあることを理解してほしいと思います。日本人は対象国の“ため”になることを優先します。しかし、それが相手国の政権にとっておいしくない場合もあります。日本人は一般的に誠実だと思います。私はそれを誇りにして長期的な視点から援助に取り組めば良いのだと思っています。

 アフリカ=貧困か

けっしてそうでもないと思います。まず、様々な場合がある、ということを念頭に置いてほしいと思います。もちろん、アフリカの現状を総括する力は私にはないのですが、地域ごとに様々な要因があり、地域固有の苦しみがあるということです。それを理解することによって、はじめてどうすればよいのか、ということがわかってきます。一方、国際的な枠組みで問題を解決する仕組みが必要だという意見も理解できますが、実はすでにいくつかあります。国連が代表的な機関で、様々な成功事例があります。問題点を指摘するときは、その問題に至った歴史的経緯を知り、代案を考えると良いと思います。問題の理解が進み、問題を“わがこと化”して考えることができるようになります。それが国際人です。国連の機関はアフリカで命をかけた活動をしています。あるUNICEFの職員(日本人です)は、赴任地のソマリアでは装甲車に乗って仕事をし、休暇はナイロビで過ごしたそうです。ナイロビといえばUNEPの本部がありますね。あなたのスマホ(携帯)の代金が武器になっているかも知れない、という標語は知っていますか。コンゴの金属資源が武装勢力の資金源になっている、そこで国際的枠組みで認証制度を作ったことは記憶に新しい。コンゴの医師がノーベル平和賞をとりましたね。包括的な視野、総合的な思考、大学で身につけてください。

 豊かな社会における問題とは

私たちは日本で十分豊かな暮らしを送っている(もちろん、必要を満たすことができない人々の存在は忘れてはならない)。歌かな暮らしを望むことは人権でもある。でもその豊かさが問題の原因になっていることがわかったら、どんな行動をとれば良いのだろうか。答えはそう簡単には見つからない。それは答えというよりは生き方かも知れません。アメリカやオーストラリア産の牛肉、私も食べたい。しかし、それがメタンの発生、食糧の飼料としての消費、水資源の減少、などと関わっているとしたら、どうか。私としては、貨幣の増殖を目的とする資本主義の手段としての牧畜か、生業としての人の生き様、地域の形成に関わる牧畜か、で判断できればよいなと思う。しかし、おいしさと安さの誘惑にはなかなか勝てない。何とか、価値を貨幣に変換しないで交換できる経済ができないものだろうかと思うのですが、それができるのは小さな社会である。そんな社会は進歩、発展を是とする20世紀の成長の精神に対するアンチテーゼとなるため、手強い課題である。少しずつ考え、考え、行動していくしかないのであろう。

 ムーブメント

この言葉を書いてくれた方がいました。変革を起こそうとすると、ムーブメントが必要です。しかし、活動をムーブメントまで昇華させるのは実際難しい。だからといってやらない活動をやめるわけには行かない。微力であっても行動し続けなければならないわけだ。まず自分が諒解すること。その諒解を共有するコミュニティ-を探すこと、コミュニティーの中で目的の達成を共有すること、コミュニティー同士の協働を目指すこと、こんなことの繰り返しでしょうか。いつかムーブメントが達成できるかも知れません。同時に、大きなレベルでも発信する。それは大学人の仕事ではないかと思います。

 オゾン層破壊物質

オゾン層の破壊について意見を頂きました。フロンは私たちの生活に大きな利便性を与えてくれました。しかし、フロンがオゾン層を破壊することがわかり、フロン規制の国際的枠組み「モントリオール議定書」ができました。千葉大学の環境ISOでも、フロンを使った古い冷蔵庫はないか~、といって代替フロンへの転換が進められているところです。最近は、オゾン層破壊物質が温暖化にもたらした影響は実は大きかった、という論文が発表されています(Polvani et.al. 2020 Nature climatic change)。となると、CO2削減に対する戦略が変わってしまうかも知れませんね。未来はわからないものです。フロンが開発された当初は夢の物質として、人類に恩恵をもたらすと信じられていました。未来は予測できるのでしょうか。

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 概ねコメントできたと思いますが、私の意見が反映されていない、という方がおりましたら、連絡ください。メディア講義になってから腱鞘炎になってしまいました。