第7章 海岸
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教科書には織田ケ浜海岸が引用されていますが、実は教科書が出版されてから、予想されたことが起こり、記述は改訂されました。 現代の海岸は人間活動によって大きくその姿を変えました。今ある海岸が自然の姿だと思っていませんか。海岸を見て、人と自然のつきあい方を考えて見ませんか。 |
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皆さんは本は読みますか。小説も大切です。人の生き様を疑似体験できるのですから。様々な生き様や社会の事情を知ることは、将来あなたが決断を迫られたときに、大いに助けになるでしょう。 「青ベか物語」は浦安が舞台です。浦安には当時の模様を伝える資料館があるのですが、まだ行っていません。いつか。 |
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昭和初期の浦安です。東西線で東京方面に向かうと、浦安駅の先で江戸川を渡ります。北側を見ると江戸川の中州が見えますが、それが地図の上の方に見えています。今昔マップで現在の様子と比較してください。 沿岸には干潟と塩田があります。当時、東京湾北岸では製塩が行われていました。市川塩浜駅に名残があります。 陸地は水田が広がっています。今の状況から想像できますか。この辺りは江戸川の三角州として形成された土地で、低地が広がっていました。 |
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衛星画像で1972年と1995年の海岸線を比較してみましょう。最新の海岸線はGoogleを参照してください。いろいろなことがわかります。 だいぶ陸地が増えています。1972年は羽田空港も小さく、西葛西の団地は干潟だったこともわかります。幕張メッセのある辺りは1972年はまだ埋め立てられていません。 千葉県の京葉工業地帯の拡大によって、市原、姉崎方面の海岸の埋め立てが進んでいます。 |
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この土地利用図は明治36年に発行された最初の地形図から読み取ったものです。陸地は緑で現される針葉樹ですが、これは黒松の疎林だと思われます。長沼のあたりは草原が広がっていますが、江戸時代の馬の放牧場、牧(まき)の名残です。 昔は東京湾に面した台地の崖を降りると海岸で、干潟が広がっていました。京成稲毛のあたりは漁師町でした。浅間神社は海をまつる神様で、昔は海の中にあった鳥居が、14号線をわたったところに残っています。 埋め立ては干潟を越えて東京湾まで行われたことがわかります。現在の京葉線はちょうど干潟の海側の境界に沿って走っています。新しい埋立地では基礎工事のコストがかかるからではないかと想像しています。 干潟ということは、地盤は砂です。だから、2011年3月11日には地盤の液状化が各所で発生しました。 |
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教科書の地図ですが、場所はわかりますか。いなげの浜から花見川経由で印旛沼までサイクリングロードが利用できます。終末処理場の上に少しだけ花見川河口が見えます。 終末処理場は私たちがシンクに流した水が下水道を通って集められて処理される場所です。汚水を流したその先を考えるということが環境を考えることに繋がります。下水は大きなコストをかけて浄化した後、東京湾に流されます。 検見川の浜、いなげの浜がありますが、これは人工海岸です。わざわざ砂を運んできて造成されました。自然にできた海岸ではないので砂が侵食されます。だから、突堤や半円状の堤防を作って砂を守っています。 |
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5枚目の土地利用図の元になった5万分の1地形図です。今昔マップを使って、現在の状況と比較してください。そこから何を読み取るか。地理学の極意です。 |
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干潟といったら有明海が有名ですが、泥干潟ですね。東京湾北岸の干潟は背後の台地の地質が砂なので、砂干潟でしたが、その記憶を持っている人は少なくなりました。かに、イソギンチャク、小魚、たくさんいました。裸足で歩くと砂がキュッキュッといって締まりました。有明海の干潟はどろんこですね。 東京湾の干満の差は2mほどで、遊んでいるとどんどん水位が上がってきた記憶があります。夏にはゴムボートを持って遊びに出かけたものでした。 写真の向こうに雲仙普賢岳が見えます。1990年代に噴火活動が活発になり、多数の犠牲者も出ました。火山で学びましたね。 |
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有明海の奥部(北側)です。GoogleMapかEarthで確認してみよう。干潟の図式が沿岸に沿って描かれていますが、その幅は最大で7kmとのことです。 干潟の奥の陸地が矩形の区画が見えます。今昔マップでは筑後川河口周辺の明治33年測図の地形図を見ることができますが、やはり矩形のパターンが見えます。 それは近世以降の干拓地です。人が自然を改変して、生業と暮らしの場を拡大していったことを意味しています。 |
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干潟は生産量(動物や植物の生育した量を乾物重量で表したもの)が非常に高いといわれています。すなわち、動植物がたくさんいるということ。 たくさんの水鳥が生息可能なのは、多層的な食物連鎖が成立しているから。たくさんの生物は水辺を浄化し、それを捕食する水鳥は栄養塩類を陸地に戻す(水辺で食べて、陸地で糞)機能も果たしていました。 谷津干潟はもともと東京湾北岸の広大な砂干潟の一部でしたが、ほとんど埋め立てられてしまいました。それでも水鳥の生息地として生態学的な機能を果たしています。 |
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マングローブ林は日本南部に分布していますが、多様な生態系が沿岸の生態学的豊かさをもたらしていました。 東南アジアではエビの養殖のために伐採された場所も多く、私たちもエビ食の恩恵を受けていますが、侵食、生態系の劣化、等の様々な環境問題を引き起こしています。 |
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西表島のマングローブ林は観光地としても有名です。北側に見えるビーチは星砂の浜としても有名ですね。 |
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マングローブ林の模式図ですが、海からの距離に応じて異なる樹種が棲み分けています。 現在は保護されていますが、昔は燃料として利用されていました。再生する量を超えて利用すればマングローブ林は衰退しますが、人口の少ない時代は里山としても機能していました。 |
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典型的な砂浜海岸の微地形分類です。浜から沖に向かって進むと、だんだん深くなりますが、さらに進むと浅くなる場所があります。 そこは砕波、すなわち波が砕ける位置です。運ばれてきた砂が堆積し、バーを形成します。 |
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全ページのような典型的な砂浜は九十九里海岸では少なくなってしまいました。 特に、海岸の北側と南側で侵食が激しく、コンクリート護岸やテトラポッドが目立つ人工海岸になっています。 |
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それは、屏風ヶ浦あるいは太東崎の崖を侵食から守るために護岸を建築したことにより、九十九里浜に供給される砂が減ってしまったからです。 そのため、ヘッドランド(人工岬)、離岸堤(沖合に海岸に平行に設置された短い堤防)が建設されました。 右下の写真(次ページにもあります)の中でヘッドランドと離岸堤を探してください。ヘッドランドの間、離岸堤の海岸側には砂が堆積しやすくなります。ただし、この場所(一宮付近)では失敗しているようです。 |
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もともとはヘッドランドの延長(約80mくらい)までは砂浜がありました。砂の供給がとまると、供給と侵食のバランスで位置を保っていた海岸線の位置が変わります。 現在の海岸の姿が自然の海岸だと思わないように。コンクリート堤防や離岸堤を前にして、海岸はいいなあ、と思うのはどうだろうか。 |
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日本の砂浜の多くは人工海岸となってしまいました。 右下の写真は屏風ヶ浦ですが、堤防が建設されています。だいたい1970年代に建設されました。崖の上はキャベツ畑やいろいろな施設があります。 それを守ることと、離れたところにある海岸を守ることをどのように考えたら良いのでしょうか。 |
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九十九平野は約6000年前の縄文海進の頃は太平洋に向かって広く開いた内湾でした。 南北から砂が供給されて海岸平野が形成されましたが、6000年後の現在、砂の供給が止まって侵食が起きています。 平野中部の片貝周辺では海岸は堆積モードになります。片貝ではせっかく建設した港が砂で埋まり、大変困りました。 今は新しい港ができていますが、Googleで見ると砂で埋まった昔の港が見えます。 |
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教科書にある織田ケ浜です。教科書の初版では埋め立てが完成するとどうなるか、という問いかけがありました。 埋め立てが完成した現在、予測されたように侵食が進んでいます。 わかっちゃいるけど、やめられない(クレイジー・キャッツを知っていますか)。人間はもっと賢くなれないものか。 |
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海岸には砂浜海岸以外に、岩石海岸があります。その模式図です。 典型的な海食地形がありますが、皆さんも南房に遊びに行ったら地形を観察して見てください。 |
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海食洞は各地でみることができますが、高さのことなる海食洞の存在は、地質時代の海水準の変動を記録しています。 仁右衛門島にある源頼朝が隠れたという洞窟も海食崖ですね。 |
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館山周辺にはもとは海食台と考えられる数段の地形面があります。初春にはお花畑として利用されています。 それは過去に起きた相模トラフを震源とする海溝型巨大地震の痕跡です。一番下位の離水した面(磯遊びをするところ)は大正関東大地震のときに隆起した海食台です。 |
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海岸といったらサンゴ礁海岸を忘れてはいけません。 サンゴは生物ですが、生物が地形を造るのです。その生物が死滅してしまったら、地形の形成は止まります。 |
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サンゴ礁の断面です。モルジブの首都、マレ島では礁縁にホテルを建設しようとして破壊したら中は未固結の珊瑚礫で島が崩壊しかけたこと(というと大げさですが)がありました。 |
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サンゴ礁が現在の気候条件および人間活動の影響下でどのような状況にあるか、調べて見てください。 |
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海岸には砂丘が京成されている場所がたくさんありますが、中には古い地質時代に形成された古砂丘が現在形成中の新砂丘の下に存在しています。砂丘も長い地質時代を経て形成されているということ。 日本海側に砂丘が多いのですが、冬の北西季節風で海砂が吹き上げられて形成されました。多くは近世に黒松などを植栽して砂の移動を止め、新田開発が行われました。 |
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鳥取砂丘の写真を掲載しましたが、新旧の砂丘が重なっていることがわかるでしょう。 敬愛大の近くに黒砂という地名があります。その由来がスライドに書かれています。東京湾北岸には砂丘が形成されていました。 |
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砂丘の内部構造の例です。 江戸時代までは山が荒れていたので(森林資源の利用)、川が土砂を海に運んで、砂丘は活発に形成されていました。低地側に水田を作っても飛砂の害が多かったのです。 しかし、最近では山地の森林が成熟し、川が土砂をあまり運ばなくなったため、海岸侵食の原因のひとつともなっています。 |
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鳥取平野と鳥取砂丘の模式図です。新砂丘と古砂丘があることに注目してください。古砂丘は約7~5万年前に形成されたとされていますが、海水準が安定した時期でした。 その時、武蔵野面と呼ばれる地形面が形成されましたが、敬愛大学のある場所は東京湾に面した海岸平野あるいは干潟だったかも知れません。 |
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敬愛大学や千葉大学の南側には東京湾が広がります。東京湾は千葉県側が浅く、東京、神奈川側が深くなっています。 それは、現在、関東平野を流れる大河川が合流し、谷を形成して相模湾へ注いでいたからでした。それを古東京川と呼びます。 |
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東京湾の海底地形がわかる図面を二つの教科書から探してきました。 古東京川の流路がわかります。今の隅田川の延長上に谷を刻み、多摩川を現在の流路より南側で合流させ、三浦半島側を流下し、東京海底谷に繋がります。 武蔵野台地や下総台地からも谷が延びていることがわかります。 |
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日本には火山が多く、火山体が直接海に面する場所もたくさんあります。近くでは伊豆半島に行くと玄武岩が海に面し、その柱状節理が観光地になっています。 火山体は時々大崩壊を起こすことがあります。雲仙普賢岳や渡島駒ヶ岳が有名です。 |
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渡島駒ヶ岳の衛星写真です。 1640年には噴火に伴い山体崩壊を起こし、噴火湾に土砂が到達することによって津波を引き起こしました。100隻余りの船舶の被害、700余名の溺死が記録されています。当時は噴火湾沿いに暮らすアイヌの方々も被災したのではないだろうか。 |
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伊豆大島の衛星写真です。 三原山の火口の周辺に暗色の溶岩が見えます。波浮の港はかつての火口です。 |
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雲仙普賢岳の1990年代の噴火は記憶に新しいところですが、1792年には噴火に伴い、前面にある眉山の山体が崩壊し、有明海に流出して津波を引き起こしました。 その犠牲者数は15000人とされていますが、対岸の熊本県に津波被害が及びました。だから、島原大変肥後迷惑というわけです。 |
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眉山の地形に崩壊の跡が見えます。その前面には島原市がありますが、海の中に九十九島と名付けられた島々が見えます。 それは土砂が流下したときに形成される流れ島地形の名残です。230年程前のハザードを記録しています。 普賢岳の噴火は1990年代前半に起きました。同様の災害はまた起きる可能性は十分あります。でも人にとってはふるさとです。あなただったらどのような諒解を形成することができるでしょうか。 |
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中央が雲仙普賢岳。火口の溶岩ドームと火砕流の跡が見えます。2000年の画像なので、山麓の火山扇状地から有明海に至る土石流の跡には堰が建設されているように見えます。 |
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日本の砂浜の最大の問題は海岸侵食でしょう。箱根駅伝で海岸線を走りますが、道路の脇に海が迫っています。かつては砂浜海岸が広がっていたところです。 その原因としてダムが建設されて川が土砂を海まで運ばなくなったという説があります。それもありますが、日本の山林が成熟して斜面が安定し、川に土砂を出さなくなったという理由もあります。 また、建設によって漂砂を止めてしまうと侵食がおきます。重要なことは、赤字で書いた部分。砂浜海岸の海岸線は侵食と堆積の動的平衡状態にあります。 |
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侵食が深刻な場所として「天橋立」があります。実は侵食が進んで、人の手によって保全が図られています。 突堤(ヘッドランド)も写真を良く見ればわかります。すなわち、自然の状態に異常が生じていることが地理学徒だったらわかります。天橋立を見れば十分美しい。しかし、その美しさが本物か、やはり見る目を養いたいものです。 |
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地形図で事情を考えて見ましょう。江尻漁港の堤防建設が漂砂に影響を与えていることが想像できます。 漂砂の流向が北から南ですので、北の端でコストをかけて砂を投入しています。とはいえ、観光収入との比較でその効果を図ることもできるでしょう。 |
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明治時代の天橋立です。 |
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大正時代。 |
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そして現在。そこには人と自然の相克があるわけです。 |
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海岸平野に多い公害として地盤沈下があります。地盤沈下は日本の典型7公害のひとつとして法律で明記され、観測が継続されています。 その原因は地下水や天然ガス鹹水の揚水です。人間にも多大なるメリットを与えてくれますが、そのデメリットもあります。 千葉県では京葉工業地帯の地盤沈下は沈静化しましたが、それは用水を地下水から河川水に転換したからです。現在でも天然ガス鹹水揚水による茂原地域の地盤沈下、原因不明の八街付近の地盤沈下があります。 観測開始から積算した最大沈下量は4.58mの数字についてどう思いますか。南砂町、木場あたりから亀戸にかけての地域です。現在はゼロメートル地帯となっており、高規格の防潮堤や排水ポンプで地域の暮らしが守られています。 |
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日本全体では、各地の沖積平野で地盤沈下が発生しました。 なお、東日本大震災の時に、地震に伴う地盤沈下という表現がありましたが、地殻変動といいたいところです。地盤沈下は地下水の揚水に伴う間隙水圧の低下による砂層の圧密沈下です。 |
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ビルは一般に支持層と呼ばれる堅固な地層まで基礎抗が打ち込まれます。よって軟弱層の沈下が起きると、ビルが抜け上がってしまいます。 かつては入り口に入るのに階段で上らなければならないビルが東京下町低地にはありました。 |
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地盤沈下で一端沈下したら地盤は元には戻りません。しかし、地下水位は揚水規制が行われると急激に回復します。 その時、地下構造物には浮力がかかり、不安定になります。東京駅総武線地下ホームは鉄の重しを置いたり、パイル(釘と考えて良い)を打ち込むと同時に、排水を強化し、地下構造物の安全を維持しています。 |
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地球温暖化は海水準の上昇をもたらし、島嶼国や沿岸地域の水没が懸念されています。 特にツバルやキリバスのような標高数mのサンゴ礁の島では国の消滅が懸念されています。それは未来のリスクで、何とか回避しなければなりません。 しかし、島嶼国の現在の問題は何でしょうか。都市化、ゴミ問題、水汚染問題、人口増加、たくさんの問題が存在しています。未来と現在の関係を考えて見ることも必要でしょう。 |
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地球温暖化が進むと世界のどこの海岸でも同じ速度で海水準が上昇するわけではありません。海水の荷重がかかると陸地も変形し、相互作用の結果、海水準が下がることもあります。 世界一律ではなく、地域によって異なることを学ぶ。これも地理学の目標のひとつです。 |