第5章 平野

1 日本の人口の大半は平野に分布しています。だから、平野の成因、性質を知ることにより、災害を防ぐ、あるいは被害を減らすことができます。

平野の代表的なハザードは洪水ですが、自然の営みであるので、防ぎきることは難しいかも知れません。しかし、ふるさとで暮らす、ということを諒解するためにも、土地の歴史、性質は知っておく必要があると思います。

この写真は松山平野ですが、教科書の著者のひとりが愛媛大学にいたことがあるため、選択されたのかなと思います。ここには様々な自然と人の物語があります。
2 古事記の記述には当時の日本の風景が描かれています。日本の原風景といってもよいですね。

このような原風景は、時に近世以降、大きく変わってきます。今、眼前にある風景は昔のままとは限りません。明治に入り、近代的な地形図が作成されることにより、昔の地形や土地利用も地形図に記録されるようになりました。

WEB版「今昔マップ」を使って、関心地域の今と昔を比べてみてください。
3 これは、ランドサット画像(衛星画像)による2000年頃の大阪平野とその周辺です。大阪平野は海が徐々に埋め立てられてできた平野です。

大阪城を探してください。家康は大阪城を船を使って攻撃しています。

世界遺産に登録された百舌の古墳群は、朝鮮からの使者が船でたどり着いたときに、まず大きな構造物を見せて、国威を発揚した、という説もあります。
4 関東平野も縄文海進の頃は(約6000年前)、海が広がっていました。千葉県は島だったようです。だから、海の貝が捨てられている貝塚が内陸部まで分布しているわけです。貝塚は千葉県では加曽利貝塚が有名ですね。近くでは園生貝塚や犢橋貝塚があります。

平安時代になっても関東平野の中央部には海の名残の湿地帯が広がっていました。平野の周辺には下総、武蔵、上野、下野、常陸国がありますが、中央にはないでしょう。湿地が広がっていたからです。

印旛沼や霞ヶ浦は海跡湖であることがよくわかります。
5 東京の下町低地もかつての海が利根川(江戸川)、荒川の運ぶ土砂により埋め立てられると同時に、江戸時代からは干潟が積極的に埋め立てられ、江戸の市街地が拡大していきました。

市川に手児奈姫の伝説があります。手児奈は海に身を投げてしまいましたが、それは現在の市川駅の南側の辺りだと思われます。

江戸城は日比谷入り江に面した台地の上にあり、浅草寺は古い砂州の上に造られた寺でした。

下町低地には川と海がつくった微地形(自然堤防、後背湿地、旧河道など)が存在し、ハザード襲来時に本来の性質を顕わにするはずです。
6 日本の平野はほとんどが川と海の作用によってできたもので、堆積平野といいます。これは日本(およびアジア)の特徴で、世界的には普通ではないということに注意してください。

侵食平野は長い年月をかけて河川が基盤岩石を侵食したもので、堆積物の厚さが薄いことが特徴です。韓半島の平野は侵食平野が多く、隣の国なのに、国土の性質は大きく異なります。

千葉大や敬愛大の高い建物の上からは地平線が見えます。これは日本の中でも稀なことです。
7 日本の大きな平野の名前と位置は覚えておきましょう。同時に、平野を形成した河川の名前も覚えてください。

平野は地域によって、その成因、形成過程の特徴が異なり、災害や人間活動と密接な関係があることを地理学では学びます。
8 これも日本人(あるいは日本に暮らすもの)としての教養としてできる限り覚えましょう。

日本で一番大きな流域面積を持つ河川は利根川ですが、江戸時代初期に利根川東遷事業によって鬼怒川の流域を獲得しています。

信濃川(千曲川)と阿賀野川はもとは新潟平野で合流していましたが、江戸時代の水害によって流路が分かれ、独立した河川になりました。その時は日本で一番流域面積の大きな河川だったはずです。
9 なぜ、そこに山があるのか。⇒隆起地域だから。
なぜ、そこに平野があるのか。⇒沈降地域だから。

日本は4つのプレート(ユーラシア、北アメリカ、フィリピン、太平洋プレート)がぶつかる変動帯にあります。だから、最新の地質時代である第四紀(形成された地形が存在し、眼で見えるという点で重要な地質時代)における変動がとても大きいのです。
10 沖積低地は重要なキーワードです。そこに日本人の暮らしの大半があります。

筑後川(次ページに写真あり)と韓国の洛東江の流域面積はほぼ同じですが、三角州の面積は大きく異なります。筑後川は上流に火山があり、降水量も多いので広大な沖積平野を形成します。

一方、洛東江は大陸河川で、あまり堆積物を運びません。だから、三角州(釜山があります)の面積が小さいのです。
11 筑後川とセーヌ川を同じ縮尺で表示しました。セーヌ川はさらに東のアルプス山脈に発します。流域面積は圧倒的にセーヌ川が大きいのですが、河口に沖積平野(沖積低地)はあまり発達していません。

セーヌ川も洛東江と同様、安定な大陸を流れる河川なので、あまり土砂を運んでいないのです。
12 教科書に掲載されている松山周辺の地形図です。国土地理院の1:5万分の1地形図で、等高線と様々な図式、道路、建築物が記載されています。

地形図はデジタル化が進んでおり、WEBでも閲覧できます。地理院地図を使いこなしてください。様々な主題図の表示、簡単なGIS機能を持っており、初等・中等教育における授業で活用できると思います。
13 2000年頃のランドサット画像です。目で見た感じと少し異なる色合いですが、広域の地形や土地利用の状況がわかります。

地形図と比較して、様々な地物の配置を観察してください。
14 地形学者はスケッチがうまい人が多いと思います。地形図、衛星画像と比較しながら、石出川扇状地、丘陵の土地利用、松山城を載せる分離丘陵、等の特徴を観察してください。

分離丘陵とは平野の中に孤立した丘陵で、侵食された谷が埋積されて丘陵本体部から分離したもの、丘陵本体部との間に活断層が存在するもの、いくつかの成因があります。

関東平野北縁の桐生付近に分離丘陵を見ることができます。
15 地形の特徴は地形分類図で表示することができます。地形分類図が読めるとハザードマップとして活用することができますが、これは必履修化される高校の「地理総合」においても重要な科目となるはずです。

なぜなら、地の形、すなわち形態から成因を読み取ることができ、その成因は地盤性状と関係するからです。例えば、自然堤防は比較的粗粒の土砂から構成される微高地で、洪水時に湛水しても水が引くのも早い、旧河道は洪水(水害)時に流路となりやすく被害が大きい、後背湿地は浸水すると水が引くのが遅い、といった有用な情報です。
16 前ページの地形分類図の解釈です。

地形分類図は地理院地図でも見ることができます。ここをクリックして印旛沼周辺の地形分類図を見てください。

地理院地図の使い方に慣れると、教材をたくさん作ることができます。特に、災害は重点項目ですので、頑張って習得してください。
17 沖積低地は日本人のほとんどが暮らす重要な地形です。その形成過程には氷期-間氷期サイクルが関係しています。

氷期-間氷期サイクルは過去100万年の間に約10万年のサイクルで10回ありました。最後の氷期がヴュルム氷期で、約2万年前が最寒冷期で、海水準は今より100mほど低下していました。想像できますか。

氷期が終わり、温暖化が進むとともに海水準が上昇し、その過程で沖積低地が形成されました。沖積低地は形成されたばかりの平野で未固結の堆積物から構成されています。それが地震時の揺れの大きさにも関係してきます。

また、河川によって埋積されてできた地形ですので、その営力は洪水です。洪水が水害になりやすい地形ともいえます。
18 濃尾平野の地質調査によって明らかにされた海水準の変動です。ボーリング調査で地質サンプルと採取し、含まれる化石が海のものか、陸のものかという判断で海面の位置を探ります。

6000年前(縄文時代)には海水準は最高レベルに達し、その後、変動を繰り返していることがわかります。縄文時代は濃尾平野でも海が内陸まで広がっていたと思われます。
19 縄文時代前期は温かい時期でした。それは現間氷期の最温暖期に相当します。ということは、地球は次の氷期に向かって寒冷化が進んでいるといえます。しかし、温室効果ガスの放出による人為による地球温暖化が進んでいます。それは人類や生態系にとって何をもたらすのか、考えなければなりません。

氷期には北半球ではローレンタイド氷床、スカンジナビア氷床が広域を覆っていました。シベリアは氷床が発達しなかったのですが、そのかわり極寒の中、永久凍土が形成され、現在でも存在しています。
20 断面の位置は春日井市から海津市あたりでしょうか。図5-7の砂礫と書いてある上側に左下がりの実線があります。これが約2万年前の最終氷期最寒冷期の地表面です。左下がりということは、西側が沈降していることを意味しています。

後氷期に海水準が上昇すると、まず海の砂が堆積します。海水準上昇に伴い、この場所は内湾になり、粘土、シルトが堆積し、中には貝殻が残されています。

さらに海水準が上昇し、海岸が南に移動すると、この場所は後背湿地になり泥炭が堆積しました。このように、沖積低地の地下には海水準変動が堆積物によって記録されています。
21 後氷期に平野の形成が進みますが、川が形成した低地という意味で、沖積低地と呼ばれる新しい地形が形成されます。そこに日本の人口のほとんどが集中しているわけです。

だから、私たちは沖積低地の性質を知っておかなければならないわけです。沖積低地の地形は川が山から出るところから海に向かって、扇状地-氾濫原(自然堤防帯、後背湿地、旧河道、等が氾濫原を構成する微地形)-三角州、という配列をとります。ただし、地域によって一部が欠けることもあるので注意。例えば、黒部川扇状地、大井川扇状地は直接海に面します(次ページ参照)。
22 空中写真やGoogleを用いて河道の形態を見ると、そこが扇状地か、氾濫原(自然堤防帯ともいう)か、三角州かわかります。

それは、土地の性質も示唆しいています。網状流は扇状地に形成され、砂礫を運びます。蛇行流は氾濫原に形成され、主に砂を運びます。分流するようになると(傾斜が極めて緩くなるから)、そこは三角州です。シルト等の細粒物質から構成され、高潮のような海の作用によるハザードも想定しなければなりません。
23 濃尾平野は東京下町低地と並び、もっとも研究が進んだ沖積平野です。三つの河川が西に集まってしまうのは、養老山地山麓に活断層があり、平野西部が沈降しているからでした。

ということは洪水の被害が出やすいことを意味しており、輪中と呼ばれる囲繞堤(いにょうてい)が有名です。

家康はこの地形を利用して秀吉を苦しめました。調べよう。
24 沖積低地の微地形は地形図や空中写真によって判読できます。迅速側図、旧版地形図を見るともともとの地形、土地利用がわかります。すると、どんなハザードを想定しなければならないか、わかります。これを「地理総合」で伝えるべく教育者は頑張っているところです。

沖積低地では頻発する洪水に適応した暮らしがありました。輪中もそのひとつですが、水屋(あるいは水塚)といった土盛りした上に立てられた避難小屋、水防林、霞堤、などがあります。

浸水はある程度受容しながら、被害を最小限にとどめる仕組みですが、現代では工学的な方法によって水防が行われ、破堤したときの被害が大きくなっています。
25 この場所は三つの河川が集まるところで、昔から水害常襲地域でした。

この地域には洪水に関わるたくさんの物語があります。関ヶ原の合戦で敗れ、外様大名になった島津藩の伝説があります。「宝暦治水事件」で検索してみてください。また、長良川河口堰事務所による「木曽三川の工事と治水の歴史」も参考になります。
26 1959年の伊勢湾台風は濃尾平野に甚大な被害をもたらしました。被災2週間後の空中写真がアメリカ公文書館に保存されており、日本地図センターで公開されています

当時の状況は立松和平著「大洪水の記憶」(サンガ新書)を読むとよくわかります。WEBにも情報がたくさんありますので、探して、見て、疑似体験してください。
27 水屋は浸水したときに一時避難したり、物資を保存しておく場所として整備されました。千葉県にも利根川沿いに水塚がかつてはたくさんありました。しかし、近代的治水が進むとともに、失われつつあります。それは良い時代になったことを意味するのか。考えてください。

盛り土は沖積低地ではよく見かける工法ですが、コストがかかります。お金と安心、どっちが大事、というのは現実には究極の選択ですが、賢く生きるとはどういうことなのか、考えましょう。
28 海津町のように、人が暮らす地面が平均海面より低くなる、いわゆるゼロメートル地帯は洪水に対する脆弱性が大きいところです。

でも、現代では強固な堤防や排水施設等によって守られています。それが人と土地の分断を引き起こし、災害時の被害を大きくしているともいえます。

知っているのなら、教えてほしかった。地理教育とハザードマップの整備によって、こんなことは言いにくい時代になったといえます。ハザードを予見して、備えることができる社会にしていきましょう。
29 それでも、そのはふるさとです。ハザードを予見しながら、ちゃんと備えて、諒解してその土地で暮らす。それは人権でもあります。

自分の暮らしが一番大切ですが、人の暮らしも尊重するという態度も暮らしやすい社会の構築のために必要だと思います。
30 千葉県で砂丘というと御宿の月の沙漠像を思い出すと思います。日本の中では日本海側に海岸に沿って砂丘が形成されて、その地域の歴史の中で様々な物語を形成しています。

庄内平野は海坂藩で有名ですね。藤沢周平の小説に登場する架空の藩です。日本人だったら歳をとると絶対好きになると思うのですが...どうですか。
31 最上川流域の2000年頃のランドサット衛星画像です。最上川が複数の盆地を経由して庄内平野に至っていることがわかります。

途中の盆地で砂礫が堆積してしまうから、庄内平野で最上川は扇状地を形成していないというわけになります。

庄内平野の砂丘と南西部の新潟平野の砂丘も見えます。
32 日本海側に砂丘が多い理由は、北西の季節風で砂が吹き寄せられること以外に、江戸時代は里山としての山林の利用が進んでおり、侵食により陸から海に大量の土砂が運搬されたことも重要な理由です。

現在は森林の保全も進み、山から供給される土砂も少なくなりましたが、そのかわり、海岸侵食が起きるようになってしまいました。

水の作用で堆積した砂の特徴は、粒径が揃っていることです。それは地下水で飽和した場合、地震時に地盤の液状化が起きやすいことも意味しています。

新潟地震は液状化の被害を印象づけた、忘れてはいけない災害です。
33 砂丘の内陸側は河川の氾濫原と接しているので、地下水面は高くなります。よって、液状化に最適な素因を持っていることになります。

新潟地震は液状化が有名なので津波の被害があったことが忘れられています。1983年の日本海中部地震でも液状化が発生しましたが、こちらは津波の被害があったため、液状化があまり印象づけられていません。

災害は、素因と誘因が揃えば、複合的に発生する(例えば、地震+津波+液状化+火災)ことに留意する必要があります。
34 日本は平野というと稲作というイメージがありますが、それは日本の歴史の中で形成されてきたものです。原風景は、豊葦原という古層からもわかるように、平野には湿地が広がっていたと思われます。

ただし、生産力の高い稲作を中心とする民族が日本で勢力を誇ったといえますが、山地にも暮らしがあったことを忘れてはいけません。この分野は歴史学と地理学の接点ともいえます。
35 これは明治期の地形図ですが、地名や土地利用に古代の暮らしの有様が残っています。

今昔マップ」というWEB上の地図表示アプリで現在の地形図と比較することができます。八反地(はたじ)は松山空港の陸側からの進入路の直下ですね。
36 佐賀平野のクリークも有名です。

ここも今昔マップで見ることができます。佐賀城から東に延び、筑後川に注ぐ河川が見えると思います。
37 共同作業の様子ですが、こういう光景は今ではあまり見かけなくなってしまいました。その代わり、行政が何でもやってくれます。

さてさて、これは進歩といえるだろうか。定常社会あるいは縮退社会の中でインフラを維持していくことはできるのだろうか。
38 東京(江戸)はもともと水の都でした。しかし、近代化の中で水辺は失われていきました。

下町低地の運河は太平洋戦争後の瓦礫を処理するために多くが埋め立てられました。時代劇で密会の場所に小舟で向かうシーンを見たことがあるでしょう。江戸はそんな風情のある街でした。

私たちは何を守ったら良いのでしょうか。何のために、誰のために。未来の子孫も視野に入れなければなりません。
39 日本の平野はもともと湿地でした。湿地には多様な機能がありました。それを生態系サービスといいます。簡単にいうと「自然の恵み」になります。

自然の恵みは私たちの暮らしの利便性のために一方的に消費して良いのでしょうか。自然の恵みを守るために、どんな活動があるのでしょうか。