第4章 台地・丘陵

1 台地・丘陵は日本では都市の周辺に位置することが多く、人間活動の場となってきました。東京周辺では下総台地、武蔵野台地、大宮大地、そして多摩丘陵は人の住処や生産の場として使われています。だから私たちは台地・丘陵の性質や歴史について学ぶ必要があります。

著者らが武蔵野台地や多摩丘陵の土地勘があるので、話題はこの2地域は中心となりますがご容赦ください。
2 多摩丘陵のランドサット(人工衛星)による画像です。左が1972年、右が2001年です。これらの画像はフォールスカラー画像といって、植生が赤く発色しています。だから赤から青灰色に変わったところが森林が伐採され、開発されたところです。新しい画像はGoogleEarth等でみることができます。

多摩ニュータウン、港北ニュータウンが見えます。もともと美しい里山でしたが、東京に通勤する人々のベットタウンとして開発され、緑は少なくなっていきました。だから、狸が反乱を起こしたわけです(平成狸合戦ポンポコ)。
3 武蔵野台地の地形を観察すると、数段の地形面から構成されています。それぞれ氷期・間氷期サイクルによる海水準の変動によって地形の侵食基準面が変わることによって形成されました。

下総台地では一番高い面が下末吉面に相当し、約12万年前の古東京湾の浅い海底が離水して形成されました。武蔵野面、立川面相当の地形面は下末吉面の周囲に分布しています。敬愛大学、千葉大学が載っている地形面は武蔵野面で、かつての東京湾の干潟でした。
4 武蔵野台地は下総台地と成因が異なります。下総台地はかつての海底面ですが、武蔵野台地は上総丘陵と同じ地質が分布する地域を多摩川が削ってできた扇状地性の地形面です。

神田川を遡っていくと、新宿辺りで河床が泥岩になります。これが房総の上総丘陵を構成する地質と同じものです。上総丘陵の地質は東京湾の地下に潜り、東京西郊で再び地表に顔を出します。

台地にはかつては湧水がたくさんありましたが、それが地名として残っています。地名はたくさんの情報を含んでいます。
5 里山とは人が使うことによって新たな生態学的な平衡状態が保たれている景観です。カエルやトンボも人が湧水を保全し、里の水田を継承してきたから命を繋ぐことができているのです。そんな里山も近代化の過程で大きく変貌を遂げました。

武蔵野と言ったら国木田独歩の「武蔵野」を思い浮かべるでしょう。この写真にあるようなクヌギやコナラの雑木林で、雑木といってもちゃんと役割があったのでした。
6 1932年発行の1:25000地形図による清瀬市付近の土地利用です。谷津あるいは谷戸を呼ばれる谷底は水が得られるため水田が分布しています。

台地の上には規則正しい土地利用が見られます。それはどのような台地の特徴、人間の営みと関係しているのでしょうか。
7 武蔵野台地は上総層群(上総丘陵に見られる地質で、ここでは泥岩)の上を侵食した古多摩川が形成した扇状地です。段丘礫層である砂利の層が上総層群を覆い、武蔵野礫層と呼ばれています。上位にある関東ローム層は空げき率が大きく、たくさんの雨水を貯留することができます。礫層にたくさんの地下水が涵養されて、豊富な地下水を含んでいます。

この地下水が国分寺崖線から湧出し、豊富な湧水帯と、多摩川の支流である野川(二子玉川で多摩川に合流します)の河川水を養っています。
8 真姿の池は湧水群の中でも有名な湧水で、律令時代に国分寺や集落の暮らしの用水として利用されていたものです。想像すると、楽しくなりませんか。
9 関東ローム層は富士、箱根等の関東平野周辺の火山を起源とする火山灰ですので、火山に近い武蔵野台地では熱さは10mにも達します。せっかく武蔵野礫層の中に豊富な地下水があるのに、地下水面が深すぎで利用は困難でした。

そこで、古代の人も考えました。
10 これは、羽村の駅前にある“まいまいず井戸”です。台地に円錐形の穴を掘り、そのそこからさらに井戸を穿ち、水を得ました。底まで降りる道がカタツムリの様に見えるので、まいまいず井戸と名付けられました。

台地では水が得にくいので、古代の暮らしの中心は低地にありました。武蔵野台地の開発が本格化したのは、次に出てくる玉川上水の開発以降ですが、下総台地では主に第二次世界大戦後でした。
11 江戸は大都市でしたが、水不足に悩まされていました。そこで、開発されたのが玉川上水でした。供給される水を使って、江戸では水道が整備されました。今でも工事現場から木製の樋が発掘されることがあります。

玉川上水のルートを地図で確認してください。台地の地形を巧みに利用して、羽村から江戸まで自然流下で水を運んでいます。その高度な測量技術は驚きです。
12 玉川上水が廃止され、一時期、廃れた時期がありましたが、現在では景観保全に対する要望が高まり、水流が復活した場所もあります。

地域の人にとっては、地元の歴史なのです。では、千葉では何があるでしょうか。例えば、花見川の掘削にはたくさんの努力と悲劇がありました。調べて見ましょう。
13 幹線の玉川上水から、支線の用水路が台地上に延び、新田開発が行われるようになりました。野火止用水は代表的な支線です。

水路を中心に特徴的な土地利用が認められます。このようなパターンは現在でも残されており、GoogleEarthで認めることもできます。調べて見よう。
14 水が得られるようになって、台地上では様々な特産品が生産されました。川越のサツマイモは有名です。

作物は新河岸川の水運で江戸に運ばれ、帰りには糞尿(金肥)を積んで帰り、肥料として活用しました。これは自然に優しい、究極の物質循環といえます。
15 現在見られる農地の景観は最初からそうだったのではなく、歴史時代のある時期に開発が始まり、新しい景観を形成したものです。

農地が一番増えたのは戦国時代から江戸時代であり、近世以降に多くの農業景観が成立したといえます。
16 土木技術も近世以降発達し、水利や治水が格段に進歩しました。

千葉県近傍で有名なのは“利根川の東遷”です。現在、銚子で太平洋に注ぐ利根川は江戸時代初期に付け替えられたものです。

これにより東北の物産を河川の水運を通して江戸に運ぶことができるようになりました(当時の帆船は太平洋から直接江戸湾に入ることができず、伊豆半島に至ってから、相模湾沿いを陸に沿って進まなければならず、時間がかかりました。

利根川東遷は江戸の市街を洪水から守るという役割もありましたが、それ以降、利根川沿いの水郷地帯や印旛沼流域では400年にわたって水害が頻発するようになりました。。
17 平野というと水田を思い浮かべますが、そのような景観が成立したのは近世以降です。

平将門の時代には関東平野中央部には国(千葉県の範囲では当時は下総の国、上総の国、安房の国)はありませんでした。それは広大な湿地が広がっていたからです。

将門は湿地の開発により富を得て、将門の乱を起こしたと言われています。戦いはまず財力です。
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江戸は先進的な物質循環社会と言われています。人の糞尿が郊外の田畑に還り、再び作物として江戸の臣民の口に入り、糞尿は...(以下、繰り返し)。屎尿は最高の資源でした。お金を払ってもほしい資源だったわけです。

現在の問題点は、富栄養化物資である窒素、リンなどが海外から入ってきて、日本の国土に蓄積していることです。

現代の都市では糞尿やゴミは税金を払って、高度な施設で処理してもらっています。さて、その設備はいつまで維持可能でしょうか。当たり前のように使っている水洗トイレは高度な技術とコストをかけて維持されています。定常ないし縮退社会に入った日本は基盤施設を永久に維持できるでしょうか。
19 江戸時代と現在の資源利用の違いは何ですか。それは資源の再利用が少なくなったこと、資源が海外から入ってきて、国内に蓄積していることが挙げられます。

窒素やリンといった栄養塩類は内水面や東京湾の富栄養化を引き起こし、大きなコストをかけて浄化が行われています。私たちは次世代にどんな自然環境を継承したら良いのでしょうか。
20 江戸時代、あるいは農村では最近まで様々な資源利用が行われ、良好な環境を保ってきました。

科学技術が進歩し、私たちの暮らしも便利になりましたが、そろそろ新しい社会のあり方を考える時が来たようです。議論はすでに始まっています。

国土形成計画(国土交通省)、地域循環共生圏(環境省)について調べてください。ポストコロナ社会のあり方を考えなければならない時期ですが、すでに社会の変革は草の根で始まっています。参加しましょう。
21 日本の都市は海外、特に欧米の都市と比較して緑が多いといわれています。それは湿潤な気候だけが理由ではなく、歴史も関係していました。

欧米の都市は中・高緯度に位置しているので、植生は単調です。計画的に緑を配置して、都市の景観、環境を保っています。ニューヨークのセントラルパーク、パリのブローニュの森、ロンドンのハイドパークは代表的なものです。
22 東京は埋め立てにより、陸地面積を拡大させてきました。下町低地の直線上の水路は、計画的に干潟の埋め立てを進めた名残です。

日比谷は埋め立て前は、湾でした。江戸城は江戸湾に臨む高台に築城されており、戦国時代は防御の意味があったのでしょうね。
23 江戸の下町は市街地を拡大させるため、徳川幕府によって干潟の埋め立てが進められました。干潟の上に、木製の水道管を置き、その上に土砂を載せて下町の水道網ができあがりました。

江戸の市街は当時としては世界最先端の都市だったのです。ロンドンで下水道工事が始まったのが19世紀半ば、パリは少し早くて18世紀頃から本格的に建設が始まっています。
24 江戸が東京になり、市街地が拡大すると、都市型洪水と呼ばれる一気に河川が増水するハザードは発生するようになります。それは、開発により降水が直ちに河川に排水されるように都市が設計されたたため、少しの降雨でも川に短時間で水があふれるようになったからです。

東京は時間雨量50mmを基準として下水道が建設されていますが、今では50mm/h程度の降水は時々起こりますね。
25 神奈川県の鶴見川は都市型洪水で有名な河川でした。開発が進むと、上流で降った雨が下流に到達する時間が短くなり、ピーク流量も増えます。

現在では雨水貯留施設、遊水池の設置等の手法によって、川の流出を抑え込んでいます。横浜スタディアムの地下駐車場は
鶴見川の水位が上がると一時的に貯水池になり、下流の洪水を緩和します。
26 もともとも自然の地表面はどのような機能を持っていたでしょうか。

近未来の社会はどのように設計したら良いでしょうか。それを考えるのは現在を生きている私たちです。
27 松戸市、市川市を流れる真間川は都市型洪水がかつて頻繁に発生しました。そのため、流域内には多数の治水施設が設置されています。

でも、コストがかかりますね。そのコストは誰が負担するのでしょうか。コストの負担を継続することは可能なのでしょうか。どういう都市を設計したら良いのでしょうか。
28 都市域に暮らす私たちは、実は守られているといってよいでしょう。気が付いていましたか。

これからは、治水施設も老朽化し、更新の時期を迎えます。同じものを設置できるでしょうか。ではどうすれば良いか。

都市計画を見直す、自然の機能を取り入れた都市の構造にする、ハザードを予見して、備えて暮らす、様々な考え方がありますが、それはやってもらうことではなく、市民として自分で考えて実行することなのです。
29 今、湧水の保全活動が盛んに行われています。なぜでしょう。皆さんは湧水に何を想いますか。

雨水浸透ますはホームセンター等で売っています。購入には行政から補助金が出ることもあります。みんなで水の循環を復活させ、地域の景観を取り戻そうという運動について、皆さんはどう考えるでしょうか。

関係ある?関係ない?関係ないとしたら、あなたは何に生かされているのか、少し考えて見ましょう。
30 市川市ではあまみず条例を制定し、新築の建物には雨水浸透ますの設置を義務づけています。印旛沼流域では、印旛沼ルールを設定し、雨水浸透を奨励しています。

東京西郊では野川の清流を復活させるために雨水浸透に行政、市民の共同で取り組んでいます。
31 台地と丘陵の違いとして、まず丘陵の方が形成年代が古いといえます。

下総台地の地形面は約12万年前に海底だった平坦面です(周囲にもう少し新しい面がくっついています)。これが千葉県北西部を占めています。

上総丘陵は第四紀と呼ばれる約250万年間で堆積した地層が隆起したものです。その中にはチバニアンが含まれますが、78.1万年前から12.6万年前までの期間を指します。形成年代が古いので、もとの海底面は地形面としては残されておらず、丘陵状になっています。
32 関東平野は平野といっても、ほとんど台地で湿られています。常陸台地、大宮大地、下総台地、武蔵野台地がありますが、その形成年代はどこも約12万年前で同じはずです。

でも、関東平野中央部で台地の標高が低くなっています。これは、関東造盆地運動と呼ばれる、中央で低く、周辺で高くなる地殻変動の結果を表しています。

山地との境界、あるいは堆積物の下の基盤には活断層が存在し、いずれ直下型地震が発生することは予見されています。私たちは、どのように備えて、諒解して暮らしたら良いでしょうか。
33 全ページの図を見ながら読んでください。

各地の平野の地盤運動の様式はそれぞれ特徴を持っています。名古屋のある濃尾平野は傾動しています。だから、西側に大河川が集まり、水害の常襲地帯だったわけです。秀吉と家康の戦いにおいても、この地形が戦術に巧みに使われています。調べるとおもしろいですよ。
34 人間の一生はわずか、100年。とはいえ、ちょっと前まで50年でした。

それに比較すると地球の歴史は46億年、今見ている地形が形成されたのは、そのほんの最近の出来事です。でも、変化が起きるときは突然やってきます。地震、地すべり、崩壊、土石流、...

自然と人の関係性について考えてください。自然との共生とはどういうことなのか、どうすれば良いのか。
35 台地や丘陵は低地に接して存在し、低地には大都市が形成されることが多いという特徴があります。

台地や丘陵は、特に高度経済成長期以降、人々の暮らしの場として開発が進んできました。多くの人と関係する地形だから、その性質を学ぶ必要があるのです。
36 かつて開発された住宅団地はニュータウンと呼ばれました。多摩ニュータウン、港北ニュータウン、千里ニュータウン、...どこも現在では高齢化が進み、様々な問題が生じていますが、新しい試みも行われています。調べて見よう。

花見川団地は団地であり、ニュータウンとは呼んでいませんね。日本で初めての団地で、京成八千代駅の西口に碑があります。
37 多摩ニュータウン西部、京王多摩線南大沢駅の北側の地形図です。かつてはのどかな里山でしたが、開発されてきれいな住宅地になりましいた。

南陽台団地は丘陵の上、北側の平山城址公園駅に続く団地は斜面に住宅地が建設されています。入居時は若かった人々も、今では高齢になっているでしょうね。
38 丘陵ですので、尾根を削り、谷を埋めて平坦面が造成されました。それが地盤災害の素因にもなり得ますが、それは次のスライドで。

ニュータウン発祥の地はイギリスですが、職住接近の地域社会として形成されました。日本では長時間の通勤が当たり前になってしまいましたが、新型コロナ禍でこの習慣はどう変わるでしょうか、変わらないのでしょうか。
39 これは重要な図です。南洋台団地の古い地形図を利用すると、どこが切り土で、どこが盛り土かわかります。盛り土は締め固めが十分行われ、その後の管理がしっかりなされない限り、地盤災害の可能性は否定できません。

鉄塔がどこに設置されているか、それは何を意味しているのか。

地震時に盛り土が崩れたり、地すべりを起こして住宅に被害が起きる災害を盛り土災害があります。法律の改正により、地盤の造成はきちんと行われるようになったはずですが、開発年次が古い団地ではまだ可能性があるかも知れません。
40 イギリスでゴルフが発祥したのは理由があります。日本のゴルフ場は造成も大変だし、雑草の管理も大変。雨が多いので、丘陵に開発されたゴルフ場では末端に調整池が設置されているのを良く見ます。

その地域の地理的条件にあった娯楽が土地にも負荷をかけないので、良いと思いますが、皆さんはどう考えますか。人が楽しんで、儲かって、きちんと管理ができればよいかな?