第3章 森林

1 ・森林を含む植生は、地球上の気候、地形等の違いに応じて分布している。よって、植生を見るということは、その背後にある地域の地理的な特徴を読み解くということにもなる。
・なぜある植生がそこにあるか、を理解することが地域の理解に繋がる。
・植生は気候変動や土地の改変といった自然および人間に起因する環境変動のインディケーターでもある。植生分布の変化を通して私たちは環境変動を知ることができる。
・植生は私たちのこころを和ませてくれる。地理学を通じて、植生と私たちの関係性についても学んでほしいと思います。
・このカバーフォトは森林限界と高山帯の写真です。森林帯の最上部は背の低いハイマツ帯につながり、場所によっては初夏の短い期間に花が咲く“お花畑”(氷河期のレリック)が広がります。その上部は植生のない高山帯となります。
2 ・どんぐりに馴染みはありますか。千葉県習志野市出身の近藤の子供の頃(昭和30年代)はクヌギやコナラのどんぐりを集めることが楽しみでした。
・でも、例えば九州の出身者だったらそうでもないかも知れません。それは植生の種類が異なるからです。西南日本の潜在植生はは照葉樹林(常緑広葉樹)であり、東北日本では落葉広葉樹になります。
・照葉樹林ではシイやカシの木がどんぐりをつけますが、落葉広葉樹はたくさんの樹種がどんぐりを実らせます。
・東北地方を舞台とする宮沢賢治の童話にどんぐりはたくさん登場します。照葉樹林帯、落葉樹林帯といった植生の違いが地域特有の文化を形成しています。
3 ・潜在植生は人間が攪乱しなかったら成立するであろう植生です。
・日本の森林はほとんどが二次林、すなわち人が利用した後に再生してきた森林です。二次林も自然林ですが、手つかずの天然林は日本では一部にしか残っていません。
・数千年にわたる人間の土地利用は里山と呼ばれる新しい平衡状態としての生態系を産み出しました。
・人が谷津を水田として利用することにより、カエルやトンボ(幼生はヤゴ)が発生し、それを食べる動物が生きていけます。画の上方に猛禽類がいますが、食物連鎖の上位として生息しています。もちろん、食物連鎖の最上位は人間です。
・斜面の落葉樹は燃料として利用されます。炭焼きが見えるでしょう。落葉樹は伐採されても、千葉辺りですと20年くらいで再生します。持続可能な資源だったのです。
・谷津の谷頭は水が湧き出し、湿った場所でも育つ杉が見えています。尾根の上部は乾燥するので、乾燥に強い松が見えます。
・農家も見えますが、これは貧しい暮らしでしょうか。ひょっとしたら最高に豊かな、持続可能な暮らしかも知れません
4 ・照葉樹林は西日本を広く覆っているはずですが、人の利用によって実際の分布は断片的です。
・そこで、宗教的に保護されている社寺林の種類が何かを調べることによって潜在植生の分布域を調べます。
・地図の上に潜在植生と考えられる植生をプロットして色づけしたのが、日本の潜在植生図です。
・千葉県は照葉樹林帯ですね。実際、太平洋岸に行くと山が光っているでしょう。照葉樹欄の森が広がっています。
・上総丘陵では若干標高が高く、その分気温が低いので、落葉樹林も実際には分布しています。
5 ・照葉樹は葉にワックスがあるので、遠くから見ると光っています。だから、照葉樹というわけです。
・伊豆半島や、房総半島の富津以南から銚子まで、照葉樹が広がっています。
・東京では、明治神宮の森が照葉樹林です。
・もののけ姫では、アシタカの里が落葉広葉樹林、タタラ場のある辺りが照葉樹林です。
6 ・中緯度における樹種は、エネルギーがどれだけ使えるか、すなわち気温分布で説明することができます。
・中緯度では気温と使えるエネルギー(正味放射量)の相関が高いためです。
・有名な生態学者である吉良達夫は月平均気温をつかって、各月の平均気温から5度を差し引き、正の値だけを足し合わせた数値を「暖かさの示数(温量示数)」と定義しました。
・温量示数によって、アジア地域の植生分布をよく説明できることがわかっています。
・温量示数は温量指数とも表記されます。
7 ・温量示数と植生帯の対応を示したものが左上の表6です。
・示数の15~45が常緑針葉樹林で、北海道や高山に分布しています。大陸ではタイガあるいはボレアル林と呼ばれます。
・示数の45~85は冷温帯で、落葉広葉樹が分布します。
・示数の85~180が照葉樹林です。
・180~240は亜熱帯で、東南アジアでは乾季に葉を落とす熱帯季節林が成立しています。
・240を超える地域は降水量も多く、熱帯雨林が成立しています。
・図3-2の温量示数の分布と、図3-1の日本の潜在植生の分布と比較してみましょう。両者がよく対応していることがわかります。
8 ・図3-2を見るといろいろなことがわかります。
・日本海側と太平洋側の沿岸はどちらが寒い(温かい)でしょうか。
・日本海側が太平洋側より温かいことがわかります。だから、近世以前は“表日本(今はこの表現は御法度です)”は日本安威川だったわけです。
・それは暖流と寒流の分布で説明できます。日本海側は温かい対馬海流が北上するから温かいのです。
・三陸沖は寒流である親潮が南下するため、日本海側より寒冷です。かつては夏に吹く冷たい東北風が“やませ”と呼ばれる冷害を引き起こし、様々な物語を生んでいます(例えば、宮沢賢治「グルコーブドリの伝記」)。
・今では農業技術の進歩によりやませは克服されつつあります。
9 ・温量示数はアジアの植生分布も良く説明します。
・日本の植生帯が大陸にどのようにつながっているのか、よく観察してください。
10 ・気温は標高が上がると下がります。
・高山地域では植生および作物は鉛直方向に帯状の分布をします。
11 ・潜在植生図(図3-1)は小縮尺の地図で広域の植生分布を概観するのは便利です。
・しかし、実際の植生分布は地形とのローカルな条件によって複雑な分布を呈しています。
・大縮尺の地図でありのままの植生分布を記録した主題図は植生現存図といいます。
・例えば、図3-3で、乾燥に強い松は尾根に、湿潤に強いクヌギは斜面下部に分布します。でも、小縮尺の地図で表現するときは、落葉広葉樹林帯となります。
12 ・植生分布は時間によっても変わります。
・松枯れが進行した時期がありましたが、松林が落葉樹林に遷移している様子が写真に捉えられています。
・その他、千葉周辺でも、かつては谷底には水田が分布し、落葉広葉樹の葉は堆肥としても利用されましたが、都市化や化学肥料の普及により落葉樹が使われなくなり、照葉樹に遷移している斜面林をたくさん見ることができます。
13 ・もし、人間による田畑の維持が止まってしまったらどうなるか。短時間で植生は遷移します。
・福島の原子力災害地域では水田耕作が止まって3年でヤナギがたくさん入り込んだ田をたくさん見ました。草原も利用が止まって数年もすると、アカマツが大分大きくなっていました。
・植生の遷移は噴火の年代がわかっている溶岩台地でよくわかります。
・伊豆大島では新規の溶岩から古い溶岩になるにつれて、低木から照葉樹に変化していく様子<植生遷移>がわかります。
・最終的には、その場所の潜在植生である極相林に落ち着きます。
14 ・富士山の青木ヶ原樹海は864年の溶岩上に成立しています。噴火によりリセットから1000年以上経ったことがわかります。
・一般には、植生が除去されてから極相林になるまで千年オーダーの時間がかかります。
・ただし、栄養状態の良い土壌でしたら、もっと短い時間で極相林になるでしょう。
・植生遷移の終点は場所によって異なります。
・図3-5に示したように、本州中央部では標高によって極相林の樹種は異なります。
15 ・一端伐採した後に再生した森林も自然林ですが、二次林と呼びます。
・例えば、東北海道、知床にも森林を伐採した後に再生した二次林としての森林が広く分布しています。
⇒明治期に国を維持するためには外貨が必要でしたが、それを賄ったのが生糸と材木でした。
・日本の主な二次林にはアカマツ林、照葉樹林、落葉樹林があり、その分布はランダムではありません。
⇒ランダムでない分布には理由がある。
・アカマツの分布は花崗岩の分布域とよく一致しています。花崗岩は風化土壌が侵食されやすく、荒れた場所で生育できるアカマツがよく分布します。
⇒そこが、マツタケの産地となります。
16 ・森林は永い時間をかけて土壌をつくります。その土壌は生態系を育むとともに、降水を受け止めて、流出を緩和したり、気候を適度に保つといった様々な機能(生態系サービスといいます)を発揮します。
・土壌学の伝統で、A、B、C、D層と呼びますので、覚えておきましょう。
・土壌は気候帯によって異なり、世界には様々な土壌があり、地域の暮らしに大きな影響を与えています。
17 ・森は人の暮らしに大きな影響を与えます。森と人は相互作用をしているといっても良いでしょう。
・照葉樹林帯は大陸にも分布し、広大な照葉樹林帯を形成しています。
・そこでは共通する文化を持ち、それを照葉樹林文化複合といいます。照葉樹林文化論として様々な議論の基礎になっています。
・(東北日本におけるブナ帯文化論という議論もあります)。
・このように地域によって文化が異なる、あるいは共通性があるということの認識は、世界の様々な地域を相互に理解する基盤つくりになります。
18 ・日本の中でも文化は異なります。例えば、うどん。
・近藤は関東人で、麺といったらソバが好きです。でも、関西人は?
・日本人がみな同じ文化的基盤を持つのかといったら、そうでもありません。心身にしみこんだ“ふるさと”の文化というものは、人のアイデンティティーの一部を構成します。それを尊重することが相互理解への第一歩です。
19 ・みなさんの心にある森はどんなものですか。照葉樹林、それとも落葉広葉樹林ですか。あるいは杉檜の人工林かも知れません。
・日本の歴史の中心地であった西日本では鎮守の森は照葉樹林でした。
・もののけ姫に出てくるシシ神の森は照葉樹林です。神様がいる森というのは日本人にとって共通のイメージなのではないでしょうか。
・一方、キリスト教やイスラム教の世界はどうでしょうか。沙漠で生まれた文化はどのような考え方を持つのか。
・実はこれが国際理解の重要な鍵になります。
20 ・最近は竹林の管理が行き届かなくなり、各地で竹林の拡大が問題となっています。
・竹林が里山として機能していた時代、西日本の特徴的な景観の一つが竹林でした。京都にも美しい竹林がありますね。
・竹は欧米にはありません。だから、貴重な観光資源にもなります。フィリピンのバンブーダンス、インドネシアの竹の楽器、など。
21 ・竹と私たちの精神世界との結びつきを考えると、たくさんありますね。
・以前、近藤家の庭に一晩で2mくらいの竹が生えたことがあり、その生長の早さには驚きました。昔の人が神が宿ると考えてもおかしくないですね。
・サルも欧米にはいません。だからあまり良いイメージを持たれないのですが、アジアでは友人であり、神様でもあります。
・以前、オバマ大統領の選挙戦が行われているとき、ある会社が“サルの反省(あの有名なポーズ)”のCMを流したらオバマ候補を侮辱していると非難されたことがありました。地域の文化をしらない独りよがりの批判だと感じました。
・異なる文化を知りましょう。異なる考え方、異なる習慣、すべてを尊重できる人こそが国際人です。
22 ・縄文文化は落葉広葉樹の文化といわれます。縄文人はたくさんのドングリを食べていました。
・縄文人の骨の中に含まれる窒素と炭素の同位体を調べると、その人が何を食べていたかがわかります。
・図3-11を見ると地域によって主要な食糧は異なっていることがわかります。
・でも、中部地方内陸部では圧倒的に堅果類が多いでしょう。縄文時代の中心地のひとつが長野県、八ヶ岳山麓でした。たくさんの落葉広葉樹があり、ドングリがたくさん採れたのでしょうね。
23 ・東北地方の山村ではトチの実が食料として使われました。
・しかし、トチの実を食べられるようにするには大変手間がかかります。ドングリは一部を除いて渋くて生では食べられたものではありません。
・縄文人は高度な調理技術を持っていました。それは暮らしの中から生まれる生活知と呼んでもよい知識でした。近代文明人の持つ科学知とどちらが重要、なんてことはいいません。どちらも重要。でも、何となく縄文時代から受け継がれる技能を持っていると安心なような気がします。
24 ・北方の縄文人は魚をたくさん食べていました。日本ではアイヌ民族の川魚文化があります。
・同様な文化はカナダ、アメリカのイヌイット、ネイティブアメリカン(インディアン)の間にもあります。
・我々の先祖、モンゴロイドは氷河期の低海面期にベーリング海峡を越えて、ユーラシアから南北アメリカに渡っています。
・同じ顔、同じ食習慣の民族が歴史的な関係性をもって世界で暮らしていると考えると楽しくなりませんか。
25 ・焼き畑農業というと遅れているというイメージはありませんか。そんなことはありません。
・焼き畑は伝統的な知識、経験に基づく持続可能な農業なのです。
・日本でも図にあるように昭和の中頃までは各地で焼き畑が行われていました。
・現在、焼き畑で地域おこしをやる試みも日本各地で復活しています。
26 ・それでも焼き畑というと“環境に悪い”というイメージがありますが、それには人口問題、社会問題の背景があります。
・例えば、インドネシアではジャワ島の人口密度が高いため、島嶼部への移住政策がとられましたが、農耕技術を持たない都市住民が生活に行き詰まり、山に火を放ってしまうという事例もあるようです。
・医療技術の進歩により、乳幼児死亡率が下がり、人口が増えると、食料の需要が高まります。そうすると、環境保全型の伝統的な焼き畑は困難になってしまいます。
・スライドには伝統的な焼き畑の様式の例が記述されています。人口が一定程度の場合、焼き畑は持続可能な農業だったのです。
27 ・人口が増えると、森林を復活させる休耕期間を短くせざるを得なくなります。
・すると、土地の生産性は徐々に落ち、最後には荒れた土地になってしまいます。
・インドネシアでは収奪的な焼き畑の後にアラン・アランと呼ばれる草地が広がる地域もあります。
28 ・衛星データで焼き畑の状況を調べた例です。
・ひとつひとつの焼き畑地の休耕期間がどれだけあるかリモートセンシングで調べました。
・伝統的な焼き畑の存在と同時に、休耕期間が短い非伝統的な焼き畑があることもわかりました。
・増えた人を養うためにはどんな方法があるでしょうか。答えはひとつではありません。環境問題、社会問題の解決を考える習慣を地理学を通じて学んでください。
29 ・日本人にとって森林とはどんな存在なのか。
・かつて森林には様々な職能集団が存在し、暮らしを営んでいました。
・それは低地農耕民が創りあげた日本の歴史とはどのような関係があるのでしょうか。それらの集団の中には非所に古い歴史を持つ集団も存在します。
・なんとなくロマンを感じますが、興味がわいたら民族学という分野を勉強してください。日本人とは何か、という問いに対する答えもあるかも知れません。
30 ・山の民は普段は山中で暮らしますが、時々里に降りてきて里の民と交易をします。
・山の民は柳田国男の民族学で有名ですが、柳田は弟子には低地農耕民の研究を進めたそうです。
・現在では山の民も普通の市民として暮らしていますが、山に民の暮らしの中に、現代を生きる我々の生き方に対するヒントがあるような気がします。
31 ・最近マツタケが採れなくなっているそうです。それはマツタケが生えるアカマツ林の里山としての機能が使われなくなったからです。アカマツ林は荒れてマツタケが生えなくなった...。
・マツタケの産地と花崗岩地域はよく対応します。二つの図を比べてみよう。
・それは花崗岩地域ではその風化のために山が荒れやすく、そんな場所ではアカマツしか生育できなかったためです。その代わり、マツタケの産地となりました。
・しかし、伐採や林床の整備が行き渡らなくなると、マツタケも少なくなってしまいます。
・この世界には様々な関係性があります。それが私たちの暮らしにも影響を及ぼします。
32 ・現在は森林が生育してるように見えるところでも、かつてはハゲ山だったところがあります。
・新幹線に乗って京都、大阪方面に向かい琵琶湖が右手に見えてくる辺りで、左手の山を見ると緑に覆われているように見えます。そこは田上山地といい、かつては都の建物や寺社を建造するために木材が切り出され、山は荒れました。
・瀬戸物で有名な愛知県瀬戸市周辺も陶土の採掘のため、かつては山がたいへん荒れていました。愛知環境万博は明治以降の治山、緑化の努力の末よみがえった里山が会場でした。
・中国地方でもタタラ製鉄のため、樹木が圧砕され、土壌から砂鉄を採取する作業のため、山は荒れました。
・これらの事例はすべて花崗岩山地です。でも現在では大分森林が修復されています。
33 ・みなさんは森林というとどのような樹種を思い浮かべるでしょうか。以外と杉檜の人工林かも知れません。
・それは戦後の復興のために、スギ、ヒノキ、カラマツといった材として使える樹種の植林が奨励されたからです。
・(寒冷な地方ではカラマツが植栽されますが、カラマツは落葉針葉樹です)。
・これを拡大造林と呼んでいますが、その後、規格の整った外材が輸入されるようになり、一部の山地を除いて林業は衰退していきます。
・都市近郊で人工林が多いのは拡大造林の時期の名残と言えます。日本の森林面積は約70%であり、樹木は日本の貴重な資源です。これを何とかうまく活用していきたいものです。
34 ・日本の基本図である5万分の1地形図は明治から大正期に日本全土を覆いました。そこには土地利用が記載されています。
・北海道教育大学名誉教授の氷見山幸夫先生は2kmメッシュごとに丹念に土地利用を読み取り、100年前の土地利用図を完成させました。
・平成の土地利用図と比較するとどんな変化を読み取ることができるでしょうか。そこには日本人が歩んできた歴史の物語が刻み込まれています。
・植生域の色が変わっていますね。それは拡大造林と関係しています。
・北海道東部の土地利用が変わっています。それは明治政府の外貨獲得の戦略、開拓の厳しい歴史が背景にあります。
・その他、たくさんの物語が記録されていますが、よく観察して読み取ってください。
35 ・氷見山先生の土地利用図を拡大しました。
・まずわかるのは東京大都市圏の拡大です。都市化が進みました。
・山地の色が変わっています。広葉樹が減り、針葉樹(混交林)が増えました。また、荒れ地が昔はずいぶんあったことがわかります。それは屋根を葺いたり、家畜を放牧する茅場が必要だったからです。阿蘇の草千里、箱根の仙石原といった観光地に面影を残しています。
・関東山地に沿って桑畑がたくさんあります。それは明治政府が外貨獲得のために奨励した養蚕と関係があります。桑は蚕の食料ですね。
36 ・この100年間で山村の生業は大きく変わりました。
・これは高知県檮原村における生業の変化です。社会的背景の変化によって生業がどんどん変化していったことがわかります。
・檮原村は幕末に土佐から京に上がるときに松山に向かう檮原街道が走っています。当時の生業が焼き畑農業であったことから、坂本龍馬や岩崎弥太郎は草原の中を歩いて松山に向かったのかも知れません。
・気候変動の中、生業が成立しなくなることが問題とされていますが、同じ長さの時間スケールで生業を変えざるを得なくなった社会があるということも覚えておいて欲しいと思います。
37 ・時代による変化の中に燃料革命があります。
・炭といったバイオ燃料から石油、ガスへと燃料が転換されて私たちの暮らしは便利になりました。その陰で炭焼きという生業が衰退していきました。
・しかし、バイオ燃料は持続可能性という観点から再び見直されています。その行く末を見守りたいと思います。若い君たちは将来の暮らしの持続可能性の観点から、自分のこととして考えてほしいと思います。
・備長炭は居酒屋の炉端の燃料として有名ですが、本来は和歌山県産のウバメガシを原料とする炭です。ブランド化され中国産の材を使った炭も備長炭として流通するようになりました。
・中国産の材も需要も高まりましたが、現在中国は森林保護のためウバメガシの輸出を中止しています。
38 ・過疎は地方の抱える深刻な問題です。
・しかし、最近状況は変わってきました。田園回帰という都市から地方へ向かう人の流れが確実に増えています。
・まだ人口動態論までは至っていませんが、確実な変化が日本人の心の中に起きていることを意味しているのでしょう。
・地方消滅論といった考え方もありましたが、復活の兆しの見られる地方も出てきました。
・興味のある方は、農村計画学、地理学の動向を調べてください。報道や大多数の意見に流されるのではなく、自分で証拠を見つけ、自分で考える習慣を身に付けてください。
39 ・理系の植生地理学に戻りましょう。
・現在の本州中央部では、標高が高くなるにつれて、照葉樹林帯⇒落葉広葉樹林帯⇒亜高山針葉樹林帯⇒高山帯、と移り変わります。
・高山帯では植生が生育できず、岩石が露出し、風雪や気温変化による風化作用で岩屑の生産が活発になります。寒冷であるため、周氷河現象と呼ばれる独特な地形形成作用が働きます。(42ページ参照)
・約2万年前の最終氷期の最寒冷期には、植生帯の分布が下方に移動しています。日本の山岳地域の広い範囲が周氷河環境に含まれています
・我が千葉県も亜高山針葉樹林~落葉広葉樹林帯に含まれていました。氷期の千葉県を想像してみよう。
40 ・北アルプスの薬師岳の写真です。立山連峰と槍ヶ岳、穂高だけの間くらいに位置します。
・頂上付近にお椀ですくった様な地形がいくつか見えます。これはかつてはカール(氷帽)と呼ばれる小さな氷河が存在した後です。
・カールの下に、現在の流水で侵食された急峻な地形が見えます。地形にはそれを形成した歴史が刻み込まれています。
・なお、最近日本アルプスの数カ所で、万年雪が越年し、動いていることが確認されています。現在でも小さな氷河が日本にはある!ということがわかっています。
41 ・周氷河地域を特徴付ける景観がお花畑です。初夏の短い期間だけ花を咲かせます。
・近藤は学生時代はワンゲルに所属していましたが、その目的はお花畑を見ることでした。
・これらの植物は後氷期に温暖化が進むとともに、高所に避難しましたが、山頂部に孤立してしまった植物で、氷期のレリックと呼ばれます。雷鳥もそうですね。
42 ・寒冷な気候下では地表付近の凍結・融解の繰り返しによって礫が破砕されると同時に、移動し、特徴的な微地形を形成します。
・亀甲状の地形(左の写真)や、氷楔(右の写真)の様な地形や地下構造が形成される。
・日本では北海道東部の道路の切り通しで氷楔を見ることができます。また、日本アルプスのような高山帯でも周氷河地形が見られます。
43 ・氷河が形成されるためには、気温だけでなく、降水(降雪)量が重要です。氷河が溶けても、雪がたくさん降れば、氷河は前進します。気候変動の時代ですが、温暖化に伴って世界中の氷河が後退(縮小)しているわけではなく、地域的な条件によって前進している氷河もあります。
・右下の写真はアフリカ、キリマンジャロ山です。赤道近くにありますが、標高が5895mありますので、山頂に氷河を戴いています。この氷河は近年、縮小傾向にあります。
44 ・これはケニア山の氷河です。氷河は確かに後退しています。
・氷河の中からは数千年前の豹の遺骸が発見されています。
45 ・ヨーロッパやアメリカでは地形学的証拠に基づき、4~6回の氷期が確認されています。最新の氷期はヨーロッパの呼び方ではウルム氷期と呼ばれ、その最寒冷期は約2万年前でした。
・南極の氷床の氷からは過去100万年間の気温変動を読み取ることができます。それによると氷期-間氷期のサイクルは約10万年の周期で繰り返されています。
・図は南極ボストーク基地でサンプルされたアイスコアから再現された過去20万年間の気温、二酸化炭素、メタンの変化です。
・中央の気温の変化を見てください、約12万前が前の間氷期(氷期と氷期の間の温かい時期)です。間氷期が終わると気温は徐々に下がり、約2万年前以降急激に上昇しています。気温の上昇は約1万年前に終わり、現在は寒冷化に向かっているように見えます。
・本来ならば、次の氷期に向かう過程にあるのですが、人間活動による地球温暖化が生じているのです。どう考えますか。
46 ・2万年前の寒冷期には北アルプスや日高山脈には氷河が形成されていました。
・植生帯も下方にシフトしていました。
・旧石器時代の日本列島は現在とは景観が大きく異なっていました。
47 ・約2万年前の日本の植生帯の分布を示した図です。
・日本列島の形が異なるのは、海水準が約100m低下していたからです。このチャンスに人を含む動植物が日本にやってきたことでしょう。
・千葉県は冷温帯落葉広葉樹林になっています。現在の東北地方、宮沢賢治が描いた森の景観が広がっていたことでしょう。
・北海道東部にはツンドラが広がっています。現在ならば北極圏に相当します。
・照葉樹林は南西諸島の一部に分布域を狭めています。
・もちろんこの図は潜在植生図と同じで、実際には寒冷な条件を耐え忍んで、温かい時代の到来を待っている照葉樹林も残っていたに違いありません。
48 ・旧石器時代の関東の原風景を復元した図です。
・関東には関東ローム層と呼ばれる火山灰が滞積しているので、遠くには噴火する火山が描かれています。
・槍の石器が出土するので、大型動物の狩りが行われたことを示唆しますので、植生は草原が卓越していたと考えられます。
・弓矢が出土するのは新石器時代になってからです。よって、森が出現し、森の中の小動物を狩るために弓矢が使われる様になったと考えられます。
・私たちが暮らす台地の上にはこんな光景が広がっていたのかも知れません。
49 ・海水準が低下したため、モンゴロイドはベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に拡散し、さらに南米に至りました。
・イヌイット(エスキモー)、インディアン(ネイティブアメリカン)、インカの民は祖先を同じくするモンゴロイドなのです。
・なお、民族の呼称については時代による変遷がありますので注意してください。
50 ・氷期は約1万年前に終わり、気温の上昇が始まります。この時期を後氷期と呼びます。
・寒い地域に棲む動植物は北あるいは高地へ移動しますが、高地に向かった種は山頂部に閉じ込められてしまいます。
・ライチョウ(雷鳥)やナキウサギは有名ですね。なお、モンゴルに行ったときに草原の中でナキウサギを見ました。
・千葉県にも氷期の針葉樹が残っている場所があります。清澄寺の近くですが、次の氷期の到来を待ち焦がれて1万年耐えてきたのですね。地球温暖化の時代を苦々しく思っていることでしょう。
51 ・後氷期の到来によって日本の気候は大きく変わります。
・縮小していた日本海が拡大し、暖流の対馬海流が流れ込むようになると、北西の季節風が大量の水蒸気を日本の脊梁山脈に運ぶようになり、日本海側は多雪地域となりました。
・日本海側にはブナの森がたくさん残っていますが、多雪のために拡大造林を免れたといっても良いでしょう。
・縄文時代が幕開け、世界最古の土器の製造、高度な調理技術が発達しました。
52 ・間氷期の温暖化は6000年前頃にピークを迎えましたが、当時の海水準は今より高く、関東平野は広い内湾となりました。
・海の貝が埋まっている海塚が内陸に分布するのは、当時海が拡大していたからです。
・この海の部分は次第に埋め立てられて、沖積平野となります。
53 ・約4000年前頃になると世界的に寒冷化が目立ち始め、各地で文明の交代が起こります。
・その一つの仮説は、温暖な気候下で豊富にあった食料が不足し始めたこと、食料備蓄技術が進歩して、貧富の差が拡大したこと、などが挙げられています。
・世界はより好戦的になっていったわけです。この流れを人類の英知で止めることができるでしょうか。
54 ・ヨーロッパや北アメリカは氷期には氷床で覆われ、その前面は寒冷な周氷河地域でした。
・ヨーロッパの森林はアルプスや地中海に南下を阻まれ、一度滅亡しています。
・現在のヨーロッパの植生はその後の1万年で再生したもの、あるいは植林されたものです。
・一方、日本の植生は第三紀から続く太古の森であり、だから豊かな森になったわけです。
55 ・森はひとの精神世界を形成します。
・世界の人々が森に対してどのような感情を持つのか。地域によって異なるでしょう。
・それを理解することが、国際理解の一つです。
56 ・10世紀頃は中世温暖期といって温暖な時期でした。この時期にヨーロッパ農法によって広大な畑が産み出されました。
・封建制が成立し、お城とお姫様とナイトというイメージのもとになりました。
・しかし、20世紀の初頭、もっと森を保全しなければならないという機運が高まり、近代的な林学がヨーロッパで生まれました。
・その後、植林、森林再生により現在のヨーロッパの景観が形成されました。
・ドイツのシュバルツバルト(黒の森)は森林再生事業により復活した森です。
57 ・中世温暖期の後、地球は再び寒冷期に向かいます。
・16~19世紀頃は小氷期と呼ばれる寒冷期で、ヨーロッパでは魔女狩り、ペストの流向、飢饉のため人口を減らしています。
・それがアメリカ大陸への移住のモチベーションともなっています。
・でも、アメリカでもフロンティアの開発のため、森林面積を大幅に減らしています。
・森林は人間の歴史との相克によって現在の姿になったといえます。